194.お前が言ったんだろう?
「ススムは、兄ちゃんが、大好きなんだねえ」
どうして、思い出したのだろう。
これは、オレがまだ、小学生にもなってない頃の、今では遠い団欒の記憶だ。
おばあちゃんと一緒に、縁先に座って、積もった雪を見ていた。
おじいちゃんは、にーちゃんと将棋だか囲碁だかをやっていて、父さんと母さんは、コタツの中で、ぐでぐでしている。
だから、話し相手が、おばあちゃんしか居なかった。
おばあちゃんの言う通り、にーちゃんはカッコ良かった。でも、にーちゃん本人には、ナイショにしておくよう、お願いしたっけ。
「はいはい、分かってますよぉ」
目を細めて、彼女はそう約束してくれた。
おばあちゃんから見ても、にーちゃんは、カッコ良い人なのかな?
頑張ってる人に、見えるのかな?
「それはもう。本当に、マモルは、アユムさんと、ノボルの若い頃に、そっくりだからねえ」
そうなの?
「正義感が強ぐて、熱いのに、いーっぱい、考えてるべ?」
そうなんだよ。オレ、にーちゃんと、父さんが、何か真剣に話してるのを聞いても、イマイチ分からなくてさあ。
「それでいっから。今は、それで」
でも、二人だけ分かってるの、ズルいじゃん。
オレだって、二人の為になりたいのに。
「二人が分がる事、分がんなくても、それでいっから。ススムは、ススムにしか分がんない事、分がればいっから」
オレにしか、分かんない事?
「んだあ。二人が出来る事ば、出来ねって事は、二人に出来ね事ば、出来るって事だあ」
オレが、オレにだけ、出来る事……。
「その為に、勉強ば、頑張るっちゃあ?」
彼女は、そう言って頭を撫でてくれた。
にーちゃんは、出来る事なら、みんなを救いたいって、そう言ってた。
でも、現実には、それは出来ない事なんだって、そうも言ってた。
にーちゃんには、出来ないって。
じゃあ、オレとにーちゃん、二人なら、出来るのかな?
オレと、にーちゃんと、オレ達に出来ない事を出来る人達なら、
みんな、みんな、助ける事って、出来るのかな?
「でもな?ススム」
にーちゃんは、悪そうな顔で、ニヤリとする。
「親父と、お袋と、お前。世界中か、三人か選べと言われたら——」
——俺は、お前達を選ぶだろう。
にーちゃん。
教えてくれ。
おじいちゃん、おばあちゃん、父さん、母さん、
誰でも良い。
教えてくれ。
「ス、スム、く……!」
「スス、む……!」
「す……坊……」
「うわあああああああっ!!?」
俺は、どうしたら、
みんなを救い出せるんだ?
胃液も血流も記憶もひっくり返して、
だけど、その答えは、
俺の中には見当たらなかった。
ただ、「みんな」を、「巻き込まれた人」とか、「家族」という意味にするなら、
一つだけ、方法がある。
右眼を、
カンナを、捨てるんだ。
そうすれば、俺達は解放され、イリーガルやら研究機関やらに狙われる日々とおさらば出来て、何事もなく、前よりも自由な日常に、戻れる、かもしれない。
そうしなければ、俺は、俺達は、間違いなく全員死ぬ。こっちは、「かもしれない」じゃあない。だったら、少しでも生き延びれる可能性に、賭けるべきだ。
だって、そうだろ?
こんな、何も無い、誰も見てない、暗くて汚い所で、何の役にも立たない、何なら人を巻き添えにした死に様で、終わってしまうくらいなら、
どんなにつまらない事をしてでも、生き恥を晒してでも、しがみ付く方がいいに、決まってるじゃないか。
3人とも、俺が巻き込んだ。俺がいなければ、こんな目には遭わなかった。
その命が失われないよう、最後まで最善を尽くす、その責任がお前にある。
お前のプライドどうこうじゃない。
エンリさんの命を助けるって、約束した。
おじいちゃんとおばあちゃんは、俺に残った、数少ない家族だ。
彼らは俺を裏切らなかった。味方で居てくれた。
それなのに、俺が裏切るなんて、してはいけない事だ。
辛い時、それでも味方して欲しい、そう願ってた。
お前が言ったんだぞ?「ベストを尽くす」って。
彼女に言った。その口で、その心を籠めて。
どんな困難を前にしても、やってやるって、
お前は彼女に、いいや、お前自身に、言ったんだ。
他でもないお前が、お前に。
贅沢だって分かっていても、
自分に都合の良い願望だって理解していても、
俺は、二人に、傍に居て欲しかった。
だから、二人に疎まれるている、それを100%の事実にしたくなくて、
僅かな、
俺は二人に受け入れられてるって、待っててくれてるって、
いつか、その戸を叩けば、笑顔で迎えてくれるって、
お前は人を守れるくらいに強くなれたんだって、
そう信じたくて、
だから俺は、二人に会いに行かなかった。
だからお前は、意地でも彼女より後に死ななきゃいけない。
二人はその、俺にとって理想の塊でしかない妄想を、
叶えてくれた!見捨てないでいてくれた!
今ならまだ信じられる!お前には価値がある!お前は人の為に戦える!
なのに、俺は、二人を見捨てるのか?
嘘にするのか?お前はお前の誠意すら、命と同じく軽くするのか?
俺にとっては、家族すら、不幸に落とす対象なのか?
正しいことって、なんだと思う?
俺は生き残って、二人を保護するよう、政府にでも助けを求めろよ。
形振り構うな。彼女はこれからもイリーガルに狙われる。
情報を手土産に、守って貰うよう頼み込め。
お前は、強い。一人では無理でも、トクシのみんなと一緒なら、
俺は時間を得れる。今は勝てずとも、将来なら、
イリーガルを、倒せる。
いや、絶対に倒すんだ!
3人は、見せしめのように浮いていたが、
また、引き込まれ始めている。
肌を剥かれているのか、焼かれているのか、
苦しげに、言葉にならない慟哭で、痛む俺の頭を叩く。
泥水の塗られた肌が、煮え湯で茹でられているかのように、
その形を崩していく。
奴等が右眼を手に入れたとて、
その力を、引き出す事が出来たとして、
だけどそれは、彼女の本体じゃない。
全部じゃない。
命じゃない!
彼女にガッカリされるくらいで、
でも、彼女が死ぬわけじゃない!
そうだ。
何を馬鹿な事を考えてたんだ。
どっちを選んでも、彼女は無事だ。
俺が、俺達が、何をしようが、
全てはその掌の上。
彼女に傷一つ、付ける事は出来ない。
言ってたじゃないか。
右手を、顔の前に掲げる。
「みんな」を、助ける事が出来る。
この2択は、考えるような問題じゃなかった。
潜行免許の筆記試験、それに毎回出される、ある1問。
それと同じだ。
本当に周囲に合わせられない、ヤバイ奴でない限り、
「いいえ」を選びようがない、間違える筈が無い、形式的な問い。
指を曲げ、近付ける。
落ち着け。
このクソふざけたやり方を前に、
動揺しているだけだ。
1択。1択じゃないか。質問とすら言えない。
全員で死にますか?
全員生き残るかもしれないと足掻きますか?
それだけだ。
グローブに守られた爪の先が、
分かるだろ?
俺は、
お前は、
だって、
約束を、
家族を、
守るだろ?
守る為に、
戦える奴だろ?
先生の、
友達の、
じいちゃんの、
ミヨちゃんの、
隣に立てるような、
人を、救えるような、
役に立つ、
立派な、
人間に、
右眼に、
触れ、
「イヤだ」
「イヤだ」
俺の指は、手は、腕は、肩は、肉は、骨は、毛先まで、
止まった。
動かせなかった。
「イヤだ……!」
口と、舌と、心臓だけが、震えていた。
迷いから、
「イヤだ…!」
怖かった。
全身が、満場一致で、その決を採った事に、恐怖していた。
俺は、俺自身の、自己中心性に、怯えていたのだ。
「イヤだ!」
人は、こんなに、残酷になれるのか、と。
「カンナは…!」
俺には、良心なんて物が、人を尊ぶ優しさなんて、
「カンナは!」
最初からどこにも、
「俺のものだ!」
無かったんじゃないかと。
「俺が、死ぬまで!」
「………」
「ム゛…ガ……」
「……ボウ……!…」
三者三様、何を言い残したかったのか。
陽だまりのような笑顔は、見る影もなく圧し歪められ、
断末魔ですら、コンクリートに封印されるように、
沈め潰された。
「苦しい」という字面から、最大限情報を引き出した最期。
持てる尊厳の全てを、
殺したのは、俺だ。
家族も、約束も、誇りも、人倫も、憧れも、矜持も、生命も、未来も、
俺は、捨てた。
彼女に、失望されたくない。
その恥を守る、ただそれだけの為に。
終わりが、近い。
汚泥で出来た
幕切れを告げる事だろう。
俺は、
三人がその姿を溶かしていった、
これから自分もその一部となる、
泥沼をただ、
虚ろに見下ろして、
〈ススム………〉
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