第2.5話

「ちょっと待っててな。先生に頼まれてレポート集めて出しに行ってたんだ」

と、戸次先輩は言った。

まだ教室に残っていた何人かの3年がそれに気付いて声をかけた。

「戸次サンキュゥ」

「そいつ一年生? かわいいなー、中学生って感じで」

自分のことを引き合いに出されて時夫は緊張してしまう。

戸次先輩は

「おう」と頷いて、

「遂に勧誘に成功しそうだ」

とにやっと笑った。


まじか、すげえ、ものずき、なんて言葉が聞こえたような気がしたが、戸次先輩は涼しい顔で手をひらひらさせた。きっとクラスメイトにも信頼されているのだろう。やっぱり先輩はかっこいい。

時夫が数年後の理想の自分の姿を脳内に描き始めたころ、リュックサックを背負った戸次先輩は

「行こう」

と時夫に声をかけた。


確か、柔道部の部室――道場は体育館の脇にあったはずだ。

「あの、おれ、体育着とか持ってきてないんですけど大丈夫ですか」

思わず時夫が尋ねると、戸次先輩は廊下をずんずんと歩きながら笑った。

「ああ、いらないいらない。今日は話するだけ。もしできたら、入部届も書いて欲しいけど」

自分の三歩分くらいありそうな歩幅に遅れないように、時夫は緊張も忘れて広い背中を追いかけた。


連れていかれた先は武道場ではなかった。

「えっ? ここですか?」

そこは屋上だった。

「雨が降らなくてよかったよ。ここじゃなきゃ、ファミレスにでも行くしかないから」

と、戸次先輩は鍵を開けながら言った。

先輩の言うとおり、すがすがしいほどの快晴だった。雲ひとつない。屋上から見る景色は、時夫が想像したよりもずっと青かった。下に見えるグラウンドでは、サッカー部とラグビー部が部活をやっていた。


「ま、ま、座ってよ」

と、先輩に言われるがままに時夫はフェンスを背にして座った。

柔道部は道場に行くのでは?

いや、新入部員にもなっていない見習いには特別な試験でもあるのかもしれない。

時夫が逡巡していると、戸次先輩はあぐらをかいてフェンスにもたれかかるように座った。

その向かい側に時夫も腰を下ろす。

サッカー部が「シュート! シュート!」と叫ぶ声が聞こえる。

戸次先輩の後ろには快晴の空が広がって、いかにもスポーツ飲料のCMの背景のようだった。


戸次先輩は時夫の眼をまっすぐ見つめて言った。

「堤くんって言ったよね。先輩がこんなこと言うのも何なんだけど……頼む! うちの部に入ってくれ!」

叫ぶように言うと、先輩はがばりと頭をさげた。胡座をかいた膝に額がつきそうだ。

「あ、はい。それはいいんですけど……」

「いいの!?」

先輩は勢いよく顔を上げた。時夫としてはもう、先輩についてきた時点でほぼ心は決まっていたので、今さらという気持ちだ。

それよりも何故、道場ではなく自分だけ屋上に連れてこられたのかが気になった。



「あのう、先輩、なんでおれ……」

時生が言いかけたときには、戸次先輩はフェンスを背にして立ち上がっていた。長身が青空に映える。眩しくて時生は目を細めた。先輩がバッと手を広げる。まるでステージの上に立った俳優のようだった。

「ようこそ、ダンス部へ!」


聞き慣れない言葉に時生は聞き返す。


「えっ? 何――何て」

「ダンス部だよ。あれ、まさか、知らなかった?」

時生は目を白黒させた。

「じゅ、じゅ、柔道部じゃ……」


「あれ、おれ、そんなこと言ったっけ?」

戸次先輩は困ったように首をひねった。

「だって、だって、柔道部のTシャツ着てた……」

「Tシャツ? ああ」

先輩は思い出したように言った。


「あれは、ほんとに部活のTシャツだよ。でも、柔道部の柔じゃなくて、柔軟性の柔。アイソレーションを怠るなって意味で、去年作ったんだ」


時生は先輩の言葉をどこか遠くで聞いてきた。言っている意味が分からない。信じていたものに裏切られたような気分だった。


「あの、おれ、すみません。帰ります」

「あ、ちょっと……」

「失礼します!」

じんわりと涙が浮かんできて、時生は慌てて立ち上がった。

たくましいと思っていたあこがれの先輩の趣味が、ダンス。


アイドルがちゃらちゃら踊って歌う、歌番組の真似事。

汗と血と泥にまみれた青春を送っているものだとばかり思っていた先輩が、急に軽い人間に見えた。

気が変わったら声かけて! と後ろから先輩が叫んできたけれど、時生は振り返らなかった。もう二度と先輩の顔を見たくなかった。先輩なんて嫌いだ。それに、運動部に見込みがあると言われたように勝手に勘違いして、舞い上がっていた自分自身も、大嫌いだった。



天気がいいから中庭で食べようと誘ってくれたのは、久留米と七戸だった。


「だってお前、あからさまにへこみすぎなんだもん」

と久留米がコロッケパンを頬張った。


「結局さぁ、堤が勝手に勘違いして誤解したってことだろ。その先輩もいい迷惑じゃねぇの?」

ズバリと言われて時生の心はまたずうんと重くなる。正論だ。正論過ぎる。


「だいたい、お前ちゃんとどんな部活か確認しなかったのかよ」

久留米があきれる。

「だって柔って書いてあったから。Tシャツに。」

時生はもそもそとからあげを食べながら言った。

あんな紛らわしい服を着ていた先輩が悪い。

「だからってなあ」


と、七戸が笑った。この男は、今朝打ちひしがれた時生に事情を聞き、さんざん笑ってくれたのだった。

時生はかっとなって言った。

「ああそうだよ、確かにおれはばかだよ! あわてんぼうだし、勝手に思い込みました! だけどさ、あの状況でどうやって確かめればよかったんだよ?」

「柔道部ですよねって一言きけばよかったんじゃねぇ」

「確かにな」

「うっ……」


すげなく友人二人に返されて、時生は言葉を失った。ダメだ。どんなに逆ギレしようが、大声を出そうが、冷静な人間たちの前で自分の愚かさはうやむやにできない。


「どうしよう……」

と、時生はからあげを食べるのも忘れて呟いた。


「謝りに行けばいいんじゃねぇの」

やきそばパンを食べ終えた久留米が、時生の弁当の中身を狙いながら言った。食欲も無かったのでされるがままにしていると、予想通りからあげを強請られたので、時生は弁当箱ごと久留米に渡した。


「そうだな。断るにせよ、入部するにせよ、一度きちんと話した方がいいんじゃないか」

と、七戸が引き継いで言った。

「うん。まあ、入部はしないけどね!」

と、時生は言った。


七戸が言う。

「いいじゃないか。案外、堤にあってるかもしれないぞ」


「俺は、筋力がつく、男らしい、たくましい、泥くさい部活がいいの! 汗と涙と血、みたいな感じの。ダンスなんてアイドルがちゃらちゃら手や腰振って愛想振りまいてるもんだろ。女ならまだしも、男のかっこよさとは正反対じゃん」


七戸は何も言わず苦笑するだけだった。中庭にひゅうっと温かい春の風が吹く。もう季節は五月を迎えようとしていた。


「たぶんおれ、戸次先輩が軟弱な男だって、思いたくなかったんだよなあ……」

と、時生は誰に言うでもなく口にした。


七戸は時生の肩をポンっと叩いた。

「次の授業が始まるからそろそろ戻ろう。体育だろ? 着替えなきゃ」

ハムスターのようになっていた久留米が飛び上がった。


「ああっ、忘れてた! おれ、剣道選択してたんだ! 胴着取りに行かなきゃ」

時生は空になった弁当箱を慌てて仕舞って、教室へ向かった。


三人の去った後の中庭にはまだ生徒が残っていた。その中から射るような険しい視線が向けられていたのを、時生はまだ知らなかった。

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