秋人 1

 梅原の葬儀は粛々と執り行われていた。

 今日も三十五度を超す猛暑日で、葬儀場へ到着した弔問客は皆、この寒々とした会場に一歩足を踏み入れるとほっとした顔をする。でもそんな人たちをよく見ると、泣きはらして目が赤かったり、事態が飲み込めていないのか呆然としていたり、一様に梅原が二十四歳という若さで亡くなったことを信じられずにいる。


 受付を四年生の向井と一緒に任されている秋人も、この訳が分からない事態に戸惑っていた。いつも下手な冗談を言って笑わせてくれる向井も、隣にいることを忘れてしまうぐらい静かだ。

 梅原が亡くなったのは不幸な事故だった。培養棟で液体窒素を使っていたとき、換気を怠ったために窒息したのだ。

 低温酵素実験が梅原の修論のテーマだった。人の体内で働く酵素の最適温度は三十度から四十度。しかし低温環境下で育つ微生物にも酵素は存在する。そんな酵素は低温で活性化されるのだ。

 梅原はその微生物から酵素を取り出し、活性状態を調べていた。

 実験自体は単純だった。酵素によって得られた反応生成物の濃度を、一時間ごとに吸光光度計で測定するのだ。但し、培養室の温度を五度に保たなくてはならない。

 培養室を開けると、冷気が顔に当たるそうだ。梅原はそれが涼しいのだと、無邪気に喜んでいた。

 ただ、長時間、拘束されることになる。

 秋人も、梅原が測定に入っていることは知っていた。寂しがり屋の梅原は、測定時だけ果樹園の奥にある培養棟へ行き、後の時間は工学部棟の研究室まで戻ってゲームをしたり、だべったりしていたからだ。梅原の話はほとんど、最近できた彼女ののろけだった。合コンで知り合ったそうだ。彼女の様子を締まりのない顔で話す梅原は、好きで好きで仕方がないという心の内を隠さなかった。ただ束縛が激しいと口にしたが、その様子もどこか誇らしげだった。


 そんな事情を知らない外部の人は、自殺ではないかと無責任な憶測を口にした。

 大学内で亡くなったことがおかしいと言う。 

 でも、就職が決まり、彼女までできたと喜んでいた梅原が、自殺するなんてありえない。 

 研究室内でのアカハラを問う人もいるが、大学三年生で一番下っ端の秋人は断言する。

 うちの酵素機能研究室に関しては、絶対そんなものはない。種田教授は忙しい。研究ではなく私生活の方でだ。不倫をしていたのが奥さんにばれて、離婚の危機らしい。不倫相手は秋人も知っている同級生で、二人そろって奥さんに慰謝料を請求されているとか。相手の同級生は大学を辞めてしまった。そして久保准教授は学生の指導をすべて助手の原口に任せている。教壇には立つが学生を教育する気などさらさらないみたいで、アカハラをする機会なんてなかった。そして原口に至っては、正規採用されて三か月しかたっていない新人だ。非正規の頃から、秋人は知っている。真面目で融通が利かないが、理不尽に誰かを貶めることはない。どちらかというと長く非正規だった原口を、梅原の方が馬鹿にしていた。

 ここで謎が一つある。なぜ梅原は液体窒素を使ったのか。

 梅原が亡くなった夜、大学に雷が落ちた。そのせいで停電が起き、培養棟の電気は止まった。普通ならここで補助用電源を使い、培養室の電源は確保されるはずだった。だた切り替えは手動。誰かが培養棟まで行かなければならない。原口は梅原に電話をしてその作業を頼んだそうだ。原口は培養棟の責任者だから、停電が起こったことを大学から知らされていた。

 そのとき梅原は電話の通じる場所におり、快諾したそうだ。これまでにも培養棟が停電になったことがあり、梅原と一緒に、補助電源に切り替えるたことがあったらしい。

 そして心配性の原口が、いつもより早く大学へ行ってみると、梅原が培養棟で倒れていた。液体窒素を使って培養室の温度を下げようと試みた形跡があったそうだ。培養室の温度変化を確認してみると、停電があってから二時間以上電源は入れられておらず、五度に保っていたはずの培養室は一時十度まで温度が上昇していた。

 どうして梅原はすぐに補助電源に切り替えなかったのか。液体窒素が必要になるまで培養室を放置したのか。

 このことは今だもって謎のままだった。


 気になる弔問客が現れたのは、葬儀が始まる十分ほど前だった。その弔問客は秋人と同年代で、人目を引く鶯色のジャケットを羽織っており、首を固定されているみたいに前だけを向いていた。 

 色白で首が長くてやせ型。

 どこかで見たことがあるような。

 その女性が躓きそうになりながらも受付を通り過ぎたのを見て、自然に秋人の足が動いた。

「すみません、ちょっといいですか」

 一緒にいた向井に後を頼む。

 その女性は会場に入って行き、梅野の親族や他の弔問客が呆然としている中、梅野が眠っている祭壇へ近づいた。

 ガハハと笑う梅野の遺影を見上げ、悲鳴のような声を上げる。

「どうして。どうしてよ。こんなところにいるのよ!」

 突然のことに、葬儀場は静まり返った。

 そんな中その女性はくるりと振り返った。尖った顎と大きさの違う左右の目を見たとき、この女性は梅原の彼女であると秋人は確信した。写真を見せてもらったことがある。梅原はものすごい美人だと話し、秋人は美人の基準を知らないから首を傾げた。写真の彼女は、スマホを向けた梅野を挑発するように目がらんらんと輝せていた。おまけに片方の口元だけ異様に上がっていたから、顔全体のバランスが悪かった。

「原口っていう助手の人、どこにいるの!」 

 彼女は八割方埋まっている親族の席や、その後ろの友人知人の席をねめつけた。「君、なに?」

 原口が立ち上がった。後ろからでも分かるぐらい肩が下がっている。以前は不健康に痩せていたのが、心美さんというパン屋を営む女性と結婚をしたのを機に、健康的にふっくらとした。ところが三日前に梅原が亡くなってから、以前にも増してやつれしまった。

「事故なんて嘘よ、あなたが、翔太のこと殺したんでしょう!」

「そ、それ、どういう意味?」

 原口と同様の戸惑いを、秋人も感じた。

「翔太がいつも言ってたもの。俺が薬品会社に就職が決まったから嫉妬されてるんだ。意地悪ばかりされている。このままじゃ殺されるって。私、あたのこと許さない、訴えてやる!」

 彼女の声が響き渡り、これはいけないと思った。彼女が言うようなことがあるはずない。彼女は恋人を失った悲しみで、誰かを責めずにいられないのだ。

「あの、すみません」

 秋人は前に出た。会場中の目が自分に集中してドキドキする。それでも何とかしなければいけないと、声を振り絞った。

「ここは梅原先輩の葬儀場です。騒がしくしないでもらえますか。詳しい話は裏で伺います」

「あんた、誰よ」

 彼女が雌雄眼で秋人を睨んだ。迫力があって背筋がぞくっとする。

「三年生の藤と言います。梅原先輩には可愛がってもらってます」

 現在形で口にする。梅原がもういないなんてまだ信じられない。

 名乗ると、急に彼女の表情が柔らかくなった。

「ああ、あなたが藤君。女を物のように扱って、酷い振り方をするんだって? でも恨まれない運のいい奴だって聞いたけど、そんなにイケメンじゃないのね」

 彼女の言葉にショックを受ける。

 梅原さんは俺のことを、そんな風に話してたんだ。

「……誤解がありますが、多分俺のことなんでしょう。それでどうですか。お話をお聞きしたいのですが」

 動揺を押し殺す。

「ああ、それなら控室を使ってください」

 親族席の女性が声を上げた。長方形の目が赤く充血している。眉が濃く彫の深い顔立ちは、梅原によく似ていた。

「私は梅原リョウコといいます。涼しい子と書きます。翔太の姉に当たるのですが、お話を一緒に聞かせてもらっていいですか」

 秋人たちにそう言うと、「いいよね。お母さん」と隣で背中を丸くして肩を震るわせている母親に声を掛けた。母親は話を聞いていないのか首だけを振っている。

「いいんですか。葬儀が始まりますよ」

 秋人が心配すると、涼子はしっかり頷いた。

「二人っきりの姉弟だったのに、この頃全然会話がなかったんです。こんなことになるなら、日ごろからもっと話をしておけばよかった」

 自嘲気味に言うと、彼女の目を見る。

「いきなり事故で亡くなったって聞かされて、家族も理解できずにいるんです。事故の原因がわかるなら葬儀より、そちらを優先させたい」

 秋人も知らせを聞いたとき、信じられなかったし、不思議に思った。それから人の命の儚さに呆然として、悲しみが沸き上がったのは一番最後だ。いつも研究室にいることが当然だと思っていた梅原が、もう来ることがないのだと思うと、寂しい。辛い。悲しい。

 肉親ならその上にどうしてという、憤りがあるのだろう。 

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