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 カーテン越しの光をまぶしく感じて目を開けた。

 入社以来の初めての心地よい目覚めに、ベッドの中で伸びをする。薬のせいかもしれないが、隣で鳴く犬の声にも気がつかないほどぐっすり眠った。

 スマホ画面は10:11と、現在時間を示している。

 寝過ごしたと焦り、いや今日は土曜日だと安心しかけ、いやいや俺はクビになったんだと力が抜けた。

 だけど、そんなに悪い気分じゃない。

 昨日はあなに悲観的だったのに、十分の睡眠でメンタルが回復し、クビになったことを客観的に見られるようになっている。本当なら今日、辞表を持って行くべきなんだろう。でもクビなんだから、わざわざ休日出勤する必要はない。送ればいい。慌てることはない。

 ベッドで好きな動画を好きなだけ見られるなんて最高の贅沢だ。

 そういえば同級生に、すぐに就職しないで一年間海外を放浪すると言っていた奴がいた。そいつと比べると、俺のスタートの方が早いぐらいだ。

 こんなに前向きな気持ちになれるなら、もっと早く薬を飲めばよかった。薬は偉大だ。

 だらだらスマホで同級生のSNSを見ていたら、お腹が空いてきた。

 近頃、インスタント食品やコンビニ食ばかりだ。別の物を食べたくなった。寝癖を直すために覗いた鏡で、鼻の頭が青黒く腫れていることを知った。昨日鞄をぶつけられたこと思い出したが触らなければ痛みはない。ついでにシップも買おうと外に出た。


 外の日差しは殺人的で、アブラゼミが悲鳴を上げている。上着を羽織ったことをすぐに後悔した。いつも背広の上下で出社していたから、上着着用が癖になっている。脱いだ上着を手にして通勤していたら松永に見つかり、弛んでいると叱らたのだ。

 砂糖と醤油の焦げる匂いにつられて入ったのは牛丼屋だった。

 よくある、安くて早くて美味いと評判のチェーン店だ。近頃は値段が上がっているけど、こんな日ぐらい好きなものを食べたい。


 大盛を五感で堪能していたら、体に力がみなぎっていくのを感じた。

 就職して以来、食事をおろそかにしていた気がする。

 客は男だけだった。土曜の中途半端な時間だから、自分と同じような独り者なんだろう。

 この中にもしかすると、仕事をクビになった無職の奴もいたりして。

 そんな想像を楽しみながら、肉汁の余韻に浸っていると、近所に住んでいると思われるジャージ姿のおじさんが店員に話しかけた。

「なあ、今朝の事故、見た?」

 紅しょうがを補充していた店員の動きが止まった。

「それが仕事中だったし、ここからは見えなかったんですよ」

 事故というから悲惨なはずなのに、好奇心むき出しで嬉しそうだ。

「俺さあ、見ちゃったんだよね」

 ジャージの客が声を低くした。得意そうにスマホを出して店員に見せている。

「わー、すげえ!」

 ジャージの客の動画を見ながら、店員は前のめりになっている。

「これ、子どもですよね」

「そうんなんだよ」

 二人の頭はくっつきそうだ。

「小さな女子。赤信号に飛び出したんだ。だから車は悪くないんだよ。あんなの飛び出したら避けられないよな」

 小さな女の子が事故に遭ったのか。

 朝のそう快感が吹っ飛んでしまいそうな出来事だ。

「でも、どうしてその子、飛び出したの?」

 店員が当たり前の疑問を抱く。

「俺はそこんとこは見てないんだけど、犬を追いかけていたみたいなんだ。手にリール持ってたから逃げ出したんじゃないかな。その犬を追いかけて、道路に飛び出したんだろう」

 会話を聞いていた館野は、鼻の奥がつんとした。手で触ると痛みが走る。犬とリールと女の子という三つのワードに引っかかった。

「すみません。その話、詳しく教えてもらえませんか?」

 見知らぬ男に話しかけられて驚いている。でもジャージの客は誰かに話をしたいみたいだ。

 時間は朝の九時過ぎ、女子は小学校の低学年ぐらい、髪を三つ編みにしていたと、教えてくれた。

「それで、その女の子は?」

「ああ、救急車で運ばれたよ。どんな具合かまでかは知らないけど、血がいっぱい出てたから危ないんじゃないか」

 ジャージの客がスマホをこちらに向けて動画を再生した。


 ざわざわした人混みが映っていて、その中を撮影者は前に進んで行く。

「だれか救急車!」

 叫び声が聞こえて、唐突に血まみれのそれが映った。

 手足を人形みたいにバラバラな方向に伸ばしている。それほどまでに手足の方向がありえない。

 今食べたばかりの牛丼が食道を上がってきて、館野は口を押えた。

「ちょっと刺激的だった?」

 ジャージの客がにやりと笑う。

 館野はそのままトイレに駆け込むと、食べた物をすべてもどした。

 映っていたのは隣の女の子だ。顔はわからなかったけど、チェックのズボンや髪形に覚えがある。胃の中が空っぽになったのでトイレから出ると、ジャージの客はもういなかった。店員は忙しそうに働いていて、日常の牛丼屋の風景に戻っている。

「あのう、さっきのお客さんは?」 

 尋ねると首を振られた。

「怪我をした女の子、どこの病院に搬送されたかご存じですか?」

「救急病院じゃないか? ほら市民病院とか」


 病院までの記憶は断片的にしかない。

 気がついたら外を歩いていて、とにかく病院を目指していた。

 それからぶちりと画面が切り替わり、いつの間にか市民病院の受付前に立っていた。

 女の子の容態が知りたくて訊いたけど、救急患者の氏名はわからないと言われた。 

 動く気になれず、待合室で頭を抱えていた。土曜だから、午後の診察は受け付けないようだ。患者はまばらで、観葉植物の緑がやけに目に付く。

 ふと顔を上げたとき、入院患者受付に知った顔があった。

 後ろで結んだだけの髪と黒縁の眼鏡。以前館野を不審者扱いした隣に住む女性だ。

「あの……」

 立ち上がり、ふらふらとその女性に近づくと声を掛けた。その女性はまぶしそうに館野を見た。。目が充血している。

「……桑井さんですよね。隣に住む館野です。もしかしてお嬢さん、怪我をされましたか?」

「なにあんた?」

 女の声は尖っていた。

「うちの娘が事故に遭って嬉しいの?」

「いやそんなつもりはありません。偶然、そんな風に訊いたから……」

「ちょっと車にぶつかっただけよ」

 母親はそう言うと感情があふれ出したのか、タオルのようなハンカチで口を押えた。

「容態は?」

「はあ? そんなのお医者さんでもわからないのに、私がわかる訳ないじゃない。ああ、あんな犬、拾うんじゃなかったわ」

 吐き捨てるように言い、母親は立ち上がった。名前を呼ばれたみたいだ。

 牛丼屋で見たのは、隣の少女で間違いない。逃げた犬を追いかけて、少女は怪我をした。容態がお医者さんでもわからないということは、相当悪いことになる。

 赤信号なのに飛び出したんだ。

 犬が逃げたから。

 自分のやったことの重大さに、今頃気づいた。

 リールが切れたんだ。だから犬は逃げた。その情景が目に浮かぶ。

 犬がいなくなればいいと思ったけど、少女が怪我をすればいいなんて、決して考えていなかった。

 これは軽率な行動のいい訳だろうか。そんなつもりはなかったと、いじめの首謀者はよく言う。

 牛丼の味が口の中に残っていて、吐き気がぶり返した。口を押えてトイレに入り、茶色い胃液を便器に吐いた。熱でも出たのか米神がずきずきと痛む。

 吐き気が収まって待合室に戻ると、受付に〝本日の業務は終了しました〟の札が立てかけられていた。

「……帰らないと」

 自分自身に言い聞かせながら、玄関を出る。

 もしかすると俺は心の中で、あの女の子のことを憎らしく思っていたのかもしれない。だから事故に遭えばいいと、いや、消えてしまえばいいと思ったんだ。

 自分の本心があまりにも暗く陰湿で、眩暈がした。

 このまま帰って布団に潜り込みたい。何もかも忘れてしまいたい。


 どれぐらい歩いただろうか。

 その場所はいきなり現れた。

 東西に走る幹線道路に、直角に交わる細めの生活道路。

 信号が青になったから渡っていたら、地面に茶色い染みがあった。

 染みは上から水を落としたようないびつな形をしており、しぶきが散っている。

 ここが事故現場だ。そう思ったら膝が震えた。

 信号が赤に変わったのに、足が動かない。

 ……俺が死ねばよかったんだ……。


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