4
カーテン越しの光をまぶしく感じて目を開けた。
入社以来の初めての心地よい目覚めに、ベッドの中で伸びをする。薬のせいかもしれないが、隣で鳴く犬の声にも気がつかないほどぐっすり眠った。
スマホ画面は10:11と、現在時間を示している。
寝過ごしたと焦り、いや今日は土曜日だと安心しかけ、いやいや俺はクビになったんだと力が抜けた。
だけど、そんなに悪い気分じゃない。
昨日はあなに悲観的だったのに、十分の睡眠でメンタルが回復し、クビになったことを客観的に見られるようになっている。本当なら今日、辞表を持って行くべきなんだろう。でもクビなんだから、わざわざ休日出勤する必要はない。送ればいい。慌てることはない。
ベッドで好きな動画を好きなだけ見られるなんて最高の贅沢だ。
そういえば同級生に、すぐに就職しないで一年間海外を放浪すると言っていた奴がいた。そいつと比べると、俺のスタートの方が早いぐらいだ。
こんなに前向きな気持ちになれるなら、もっと早く薬を飲めばよかった。薬は偉大だ。
だらだらスマホで同級生のSNSを見ていたら、お腹が空いてきた。
近頃、インスタント食品やコンビニ食ばかりだ。別の物を食べたくなった。寝癖を直すために覗いた鏡で、鼻の頭が青黒く腫れていることを知った。昨日鞄をぶつけられたこと思い出したが触らなければ痛みはない。ついでにシップも買おうと外に出た。
外の日差しは殺人的で、アブラゼミが悲鳴を上げている。上着を羽織ったことをすぐに後悔した。いつも背広の上下で出社していたから、上着着用が癖になっている。脱いだ上着を手にして通勤していたら松永に見つかり、弛んでいると叱らたのだ。
砂糖と醤油の焦げる匂いにつられて入ったのは牛丼屋だった。
よくある、安くて早くて美味いと評判のチェーン店だ。近頃は値段が上がっているけど、こんな日ぐらい好きなものを食べたい。
大盛を五感で堪能していたら、体に力がみなぎっていくのを感じた。
就職して以来、食事をおろそかにしていた気がする。
客は男だけだった。土曜の中途半端な時間だから、自分と同じような独り者なんだろう。
この中にもしかすると、仕事をクビになった無職の奴もいたりして。
そんな想像を楽しみながら、肉汁の余韻に浸っていると、近所に住んでいると思われるジャージ姿のおじさんが店員に話しかけた。
「なあ、今朝の事故、見た?」
紅しょうがを補充していた店員の動きが止まった。
「それが仕事中だったし、ここからは見えなかったんですよ」
事故というから悲惨なはずなのに、好奇心むき出しで嬉しそうだ。
「俺さあ、見ちゃったんだよね」
ジャージの客が声を低くした。得意そうにスマホを出して店員に見せている。
「わー、すげえ!」
ジャージの客の動画を見ながら、店員は前のめりになっている。
「これ、子どもですよね」
「そうんなんだよ」
二人の頭はくっつきそうだ。
「小さな女子。赤信号に飛び出したんだ。だから車は悪くないんだよ。あんなの飛び出したら避けられないよな」
小さな女の子が事故に遭ったのか。
朝のそう快感が吹っ飛んでしまいそうな出来事だ。
「でも、どうしてその子、飛び出したの?」
店員が当たり前の疑問を抱く。
「俺はそこんとこは見てないんだけど、犬を追いかけていたみたいなんだ。手にリール持ってたから逃げ出したんじゃないかな。その犬を追いかけて、道路に飛び出したんだろう」
会話を聞いていた館野は、鼻の奥がつんとした。手で触ると痛みが走る。犬とリールと女の子という三つのワードに引っかかった。
「すみません。その話、詳しく教えてもらえませんか?」
見知らぬ男に話しかけられて驚いている。でもジャージの客は誰かに話をしたいみたいだ。
時間は朝の九時過ぎ、女子は小学校の低学年ぐらい、髪を三つ編みにしていたと、教えてくれた。
「それで、その女の子は?」
「ああ、救急車で運ばれたよ。どんな具合かまでかは知らないけど、血がいっぱい出てたから危ないんじゃないか」
ジャージの客がスマホをこちらに向けて動画を再生した。
ざわざわした人混みが映っていて、その中を撮影者は前に進んで行く。
「だれか救急車!」
叫び声が聞こえて、唐突に血まみれのそれが映った。
手足を人形みたいにバラバラな方向に伸ばしている。それほどまでに手足の方向がありえない。
今食べたばかりの牛丼が食道を上がってきて、館野は口を押えた。
「ちょっと刺激的だった?」
ジャージの客がにやりと笑う。
館野はそのままトイレに駆け込むと、食べた物をすべてもどした。
映っていたのは隣の女の子だ。顔はわからなかったけど、チェックのズボンや髪形に覚えがある。胃の中が空っぽになったのでトイレから出ると、ジャージの客はもういなかった。店員は忙しそうに働いていて、日常の牛丼屋の風景に戻っている。
「あのう、さっきのお客さんは?」
尋ねると首を振られた。
「怪我をした女の子、どこの病院に搬送されたかご存じですか?」
「救急病院じゃないか? ほら市民病院とか」
病院までの記憶は断片的にしかない。
気がついたら外を歩いていて、とにかく病院を目指していた。
それからぶちりと画面が切り替わり、いつの間にか市民病院の受付前に立っていた。
女の子の容態が知りたくて訊いたけど、救急患者の氏名はわからないと言われた。
動く気になれず、待合室で頭を抱えていた。土曜だから、午後の診察は受け付けないようだ。患者はまばらで、観葉植物の緑がやけに目に付く。
ふと顔を上げたとき、入院患者受付に知った顔があった。
後ろで結んだだけの髪と黒縁の眼鏡。以前館野を不審者扱いした隣に住む女性だ。
「あの……」
立ち上がり、ふらふらとその女性に近づくと声を掛けた。その女性はまぶしそうに館野を見た。。目が充血している。
「……桑井さんですよね。隣に住む館野です。もしかしてお嬢さん、怪我をされましたか?」
「なにあんた?」
女の声は尖っていた。
「うちの娘が事故に遭って嬉しいの?」
「いやそんなつもりはありません。偶然、そんな風に訊いたから……」
「ちょっと車にぶつかっただけよ」
母親はそう言うと感情があふれ出したのか、タオルのようなハンカチで口を押えた。
「容態は?」
「はあ? そんなのお医者さんでもわからないのに、私がわかる訳ないじゃない。ああ、あんな犬、拾うんじゃなかったわ」
吐き捨てるように言い、母親は立ち上がった。名前を呼ばれたみたいだ。
牛丼屋で見たのは、隣の少女で間違いない。逃げた犬を追いかけて、少女は怪我をした。容態がお医者さんでもわからないということは、相当悪いことになる。
赤信号なのに飛び出したんだ。
犬が逃げたから。
自分のやったことの重大さに、今頃気づいた。
リールが切れたんだ。だから犬は逃げた。その情景が目に浮かぶ。
犬がいなくなればいいと思ったけど、少女が怪我をすればいいなんて、決して考えていなかった。
これは軽率な行動のいい訳だろうか。そんなつもりはなかったと、いじめの首謀者はよく言う。
牛丼の味が口の中に残っていて、吐き気がぶり返した。口を押えてトイレに入り、茶色い胃液を便器に吐いた。熱でも出たのか米神がずきずきと痛む。
吐き気が収まって待合室に戻ると、受付に〝本日の業務は終了しました〟の札が立てかけられていた。
「……帰らないと」
自分自身に言い聞かせながら、玄関を出る。
もしかすると俺は心の中で、あの女の子のことを憎らしく思っていたのかもしれない。だから事故に遭えばいいと、いや、消えてしまえばいいと思ったんだ。
自分の本心があまりにも暗く陰湿で、眩暈がした。
このまま帰って布団に潜り込みたい。何もかも忘れてしまいたい。
どれぐらい歩いただろうか。
その場所はいきなり現れた。
東西に走る幹線道路に、直角に交わる細めの生活道路。
信号が青になったから渡っていたら、地面に茶色い染みがあった。
染みは上から水を落としたようないびつな形をしており、しぶきが散っている。
ここが事故現場だ。そう思ったら膝が震えた。
信号が赤に変わったのに、足が動かない。
……俺が死ねばよかったんだ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます