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 それから二週間経っても、事態は改善しなかった。

 松永は相変わらず怒鳴り散らし、隣の犬は毎朝鳴く。

 館野がお得意様周りを終えたとき、頬にぽつりと雨が落ちた。

 これはやばいと車に乗り込み、間一髪で濡れるのを回避する。フロントガラスを大粒の雨が叩いた。

 雷が鳴る中、会社に戻ると、部屋は暗かった。落雷で停電になっているみたいだ。仲間の営業は連絡を受け、停電で混乱する科学機器メーカーに助っ人に行っている。

 館野が業務報告書作成に取り掛かると、停電は回復した。でも節電のために室内灯を半分しか点けていないせいか、周囲はほの暗い。

 中川がキーボードを叩く音を聞きながら、館野は体を掻いていた。痒みは一度掻き始めると、さらなる痒みを誘発する。館野の皮膚は粉を吹き、白い粉がパラパラ落ちた。前の席の座る新開が眉をひそめている。不潔なのはわかっている。申し訳ないと思う。でも、痒みが痛みに代わるまで止められない。


「ちょっと来い」

 シャツに手を突っ込んで背中を掻いていると、松永に呼ばれた。

 いやな予感しかしない。

 貧乏ゆすりをしてる松永の前に立つ。

「さっきK化学から電話があって、担当代えて欲しいって言われたぞ」

 短く息を飲み、悲鳴が漏れそうになる。

 やってしまった。K化学は、ずっとうちを使ってくれている大切な顧客だ。それなのに担当を代わってくれなんて……。

「いい加減にしろよ。館野」

 いつものように笑いを含んで、こちらを馬鹿にするような声じゃない。腹の底から出す低い声。こういうとき松永は、本気で怒っている。

「気持ち悪いんだって。商品の箱に血が付いてたり、いつも体中をポリポリ掻いてたり」

 お客様の前では体を掻かないように心がけているけど、それを上回る痒みがある。でも商品に血が付いてたなんて最低だ。どうりで今日、試薬サンプルを受け取った事務員が、眉をひそめていたはずだ。

「すみません。俺、犬アレルギーなんです。隣の家で犬を飼ってるみたいで、この頃症状がひどいんです。でも病院へ行く時間がなくて……」

 首に爪を当て、これがいけないと思って引っ込めるが、どうしても我慢できない。結局、指の腹で皮膚を押す。

 はじめにアレルギー症状が出たのはエレベータの中だった。猛烈な痒みに襲われた。犬アレルギーがあったから、ペット不可のマンションを選んだ。それなのにアレルギー反応なんておかしいと思っていたら、隣の家から犬の鳴き声がした。その後マンションの玄関や廊下、それどころか通勤途中の電車の中とか会議中、あらゆる場所や場面で痒みを覚えるようになった。一度アレルギー反応を起こしてしまうと体が過敏になるみたいで、今となっては何が原因なのかわからない。とにかく、いつも痒い。痒くてたまらない。

「行く時間がないって、いい訳だろ。うちみたいに医療器具を扱う会社は、清潔感が求められるんだ。お前みたいに皮膚がボロボロの奴に出入りされたら、そりゃあ、気持ち悪いわ。自己管理も仕事だってわかってないのか?」

 強い口調で言われる。

「すみません」

「明日一番で病院行って来い。お前はしばらく営業に出なくていいから。いいな」

「すみません」

 謝ることしかできない自分が情けない。

「おい、いつまで下を向いてるんだ。謝罪は相手に目を見てするもんだろう」

 そう言われて顔を上げると、テープカッターを台ごと飛んできた。

 とっさに館野が避けたので、テープカッターは音を立てて床に落ち、台から外れたテープが転がった。

「おい、なに避けてるんだよ!」

 極限まで見開かれていた松永の目が細くなったかと思うと、今度は優しい声を出した。

「あー壊れちゃったじゃないか。お前が弁償しろよ」

「……は、はい」

 大声で叱られると体が委縮してしまう。自分の席に戻ると、頭や首や背中やあらゆる場所が痒くなり、血が滲むまで掻きまくった。

 

 気持ちが悪いと言われたのはショックだったが、半休を堂々と取れるのはありがたかった。早速次の日病院で、薬を出してもらった。アレルギー反応はアレルゲンに起因するが、ストレスを受けていると反応閾値が下がるらしい。とにかく今の症状を緩和するためにと、飲み薬ときついステロイド剤が出された。

 すぐに薬を飲んで血がにじむ首筋にはステロイド剤を塗ると、これまでの痒みが嘘のように収まり、代わりに押し寄せたのは強烈な眠気だった。

 昨日の雷が嘘のように外はよく晴れている。自分の存在が消えてしまったみたいに影が短い。おぼつかない足取りで職場に戻ると、丁度職場は昼食時だった。買って来たコンビニ弁当を最速で食べて午後の業務にさしかかった館野は、頭を見えない手で机に押さえつけられるほどの強い力を感じた。

 意識を失うように眠ってしまう。

「外回りできないから内勤に回したら居眠りするって、どういう訳だ」

 怒鳴り声と強い衝撃に、同時に襲われた。

 背もたれ越しに、椅子を蹴られたのだと知る。それでも目を開けることができない。松永に立て続けに二回、椅子を蹴られてやっと、頭が少しずつ起き上がった。

 そして、とんでもなくまずい状態に置かれていることを理解したときには遅かった。

「なんで人事はお前なんか雇ったんだろう。俺の胃、ストレスで穴あきそうなんだけど」

 ガンと松永が机を叩き、館野の体はすくんだ。土下座でもして謝ればいいのかもしれないが、体が動かない。

「ひっ!」

 代わりに悲鳴を上げたのは、机越しに衝撃を受けた向かいの席の新開だった。

「ああ、チホちゃん。驚かせてごめんね。こいつがあんまり無能だから」

 新開に優しく言うと、また館野の椅子を蹴りとばす。

「や、やめてください」

 無様に椅子からずり落ちた館野を松永は見下すと、ふっと息を吐いた。

「お前はクビだから」

 最終通告が出た。

「これ以上お前がいたら、うちの会社のためにならない。明日辞表書いて持って来い。いいな」

「そ、そんな……」

 松永は、机の横にかけてあった館野の鞄を掴むと、館野に投げつけた。

「か、かちょう」

 顔の真ん中に衝撃を受け、温かいものが鼻から流れる。慌てて顔を押さえたら赤かった。

「汚ねーなーお前」

「チホちゃん、ティッシュ」

 呼ばれた新開が、ティシュを箱ごと持って来て松永に渡した。それを松永に投げられ、館野は慌てて血を止めようとする。

 こんなことになるなんて思いもしなかった。入社してまだ五ヶ月も経っていないのにクビなんて、どうしよう。

 やっぱり俺みたいなトロい男が東京で就職なんて無理だったんだ。

 「早く、出て行け!」

 一切の言い訳を許されない。

 これ以上、ここにはいられないんだ。

 そう思うと館野は立ち上がり、とぼとぼと部屋を出た。

 

 あれほど怒鳴られたのに頭の中がぼんやりとしていて、実感が湧かない。それでも歩きながら考えた。 

 実家に帰るのは避けたい。両親は千葉で農業を営んでいる。一人息子の自分に跡を継がせたいという圧を幼い頃から感じており、それが嫌で東京の大学へ進んだ。

 やればできるとか、諦めなければ夢は終わらないとか、大それたことは考えていない。ただ東京で生活できるだけのお金が稼げたら、それでいいと思っていた。

 それなのにクビかあ。

 館野だって、会社の方から社員をクビにするには、もっと明確な理由が必要であることぐらいは知っている。組合に申し出たら守ってもらえるはずだ。だから松永も、辞表を持って来いと言ったのだ。

 でもはたして、組合に訴えてクビを取り消してもらったとして、この仕事を続けられるのか。単純に松永が恐い。前に出ると震えてしまうだろう。体が松永を拒否する。

 いつもの帰路を手負いの家畜のようにふらふら歩いていると、自宅があるマンションまでたどり着いていた。

 階段を上がっていると頭が振り子のように前後に揺れる。

 足を踏み外して落ちる自分を想像した。

 こんな非常階段を使うのは多分自分ぐらいで、誰にも助けてもらえず死んでいく。

死体は腐って周りに迷惑をかけるはずで、急に親に申し訳なくなった。せっかく大学まで出してもらったのに、情けない死に方をしてごめんなさい。

 ネガティブなことばかりを考えながら階段を上り、502号室の前で止まった。

 犬のリールはまだ傘に巻き付いている。

 薬を飲んでいるのに、猛烈な痒みに襲われ、館野は爪を立てて首筋を掻いた。

 すべてはこの犬が悪いんだ。ここで犬を飼い始めなかったら、こんなに苦しみはしなかった。ドアから顔を出した女性の顔を思い出し、不審者扱いされたことにも腹が立った。

 犬が可哀想って、なんだよ。そういう感情はルールを守った先にあるものだろう。子どもだからって、許されていいのか。

 俺の方がよっぽど可哀想だ。

 そのとき館野は、自分の鞄にハサミが入っているのを思い出した。筆記用具を持ち歩くのは営業の常だ。

 鞄を開けてハサミを取り出す。指を入れてチョキチョキと音を出し、リールの首に近い場所に浅い切り込みを入れた。

 もしかすると散歩の途中にリールが切れて、犬が逃げてしまうかもしれない。逃げない確率の方が断然高い、ささやかな切り込みだ。それでも何か、隣の母子に一矢報いたみたいで、気分が楽になった。

 それから自室に入ると、カップラーメンを食べてシャワーを浴びた。

 顔が痛いから、鞄をぶつけられたところが痣になっているのかもしれない。明日はシップでも買って来ようと思いながら、ベッドに入った。

 今までの不眠が嘘のように深い眠りに落ちた。

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