2

 やっと休日になった。

 でも、起き上がる気力がない。隣家の犬の鳴き声が煩くて眠る気にはならず、スマホで動画を見ながら過ごした。 

 それでも空腹は感じるものだ。

 トイレのついでに冷蔵庫の中を見ても、何も入っていなかった。久しぶりに近所のスーパーにでも行こうかと、家を出る。

 すると、丁度隣の家から犬を抱いた女の子が出て来た。目がクリンと丸くて、髪を凝った三つ編みにしている。膝小僧が見え隠れするチェックのズボンを穿いていた。

 散歩に行こうとしているんだろうか。館野は爪を立てて首筋を掻いた。

「ちょっと、あのう」

 館野が呼びかけると、その女の子は驚いてみたみたいだ。大きな目をさらに大きくする。

「その犬だけど、おうちで飼ってるの?」

 茶色くて柴犬っぽい犬は、少女の胸にすっぽり収まっている。

 女の子は脅えるようにドアを開け、家の中に戻ってしまった。

「お母さん、外に変なおじさんいる」

 中で叫んでいるのが聞こえた。

 変なおじさんって、俺のことか? まだ二十三歳だし……。充分おじさんか。

 まあ館野でさえ小学生の頃は、先生や親に、知らない人に話しかけられても付いて行かないように教育された。今の小学生はもっと徹底されているのだろう。

 でも俺は隣人で、知らない人じゃない。

 女の子が消えたドアがひょいと開き、髪を後ろで結んだだけの黒メガネの女性が顔だけを出した。

 館野に気づき、目が細くなる、

「なんですか?」

 一応隣人だと覚えてくれているみたいだが、不信感は最大級になっている。

「いや、あのう、犬が……」

 指先に血が付いているのに気が付いて、強く握りしめる。

「ああ、少しの間だけ家で飼ってるんです」

 不機嫌そうに言われる。

「いや、でもここはペット不可のマンションですよね」

 自分は間違っていないはずだ。規則を破っているのは向こうで、こっちは悪くない。そう自分に言い聞かしておかないと、怯んでしまいそうだ。

「ですから、少しの間だけです」

「でも規則では……」

「管理人さんの許可は取ってあります。文句があるなら管理人さんに言ってください」

 女性はぴしりと言い放つと、ドアを閉めた。

「アイカちゃん。お散歩は、もう少ししてからにしなさい」

 女性の声がドア越しに聞こえて来た。それに対してさっきの女の子、アイカちゃんが不満を言っている。

「仕方ないでしょう。外に変なおじさんがいるんだから」

 女性の声は大きい。

 絶対これ、わざと俺に聞かそうとしているよな。それにしても、ここはペット不可で無くなったんだろうか。

 

 次の日の昼休み、マンションの管理人に電話をかけた。

「503号室の館野と言います」

 管理人は、平日の午前10時から午後4時までの間だけやって来る近所のお年寄りだ。

「はい、どうしました?」 

 耳が遠いのか声がやたら大きい。

「隣の502号室なんですが、犬を飼っているみたいなんですけど、うちはペット禁止ですよね」

 告げ口をするみたいで心苦しいが、背に腹は代えられない。

「ああ、桑井さんですね」

 管理人はあっさりその事実を認めた。

「あそこの一年生になるお嬢ちゃんが、仔犬を拾って来たんですよ」 

 そして聞いてもいないのに、事情を話し出す。

「うちはペット禁止のマンションです。それは皆さん、ちゃんと承知して入居されています」

 毅然と断言して続ける。

「でもね、目の前で小さな子どもが、目に涙をいっぱいためながらお願いするんですよ。どうか預かってもらえる家が見つかるまで、うちで飼わしてくださいって」

 なんだかドラマの一場面のようで、容易に想像できた。

「ねえ、わかりますか。相手はまだ全然すれていない七歳なんですよ」

 耐えられなくなって、スマホを耳から離した。

「そんな子どもがここまで来て、頭を下げたわけよ」

 その点を強調する。

「こっちだって鬼じゃない。子どもをいや、仔犬を助けてあげたいって思うでしょう。だから少しなら待つって言っちゃったんだ」

 それで許したのか。許してしまったのか。

「だけど、うちは……」

「わかってるよ。ペット禁止なの。でも可哀想じゃん」 

 急に管理人は砕けた口調になった。

 可哀想ってなんだよ。

「それは管理人さんが隣に住んでないから言えるわけで……」

「わかった」

 管理人さんは館野の話をぶち切りすると、ため息をついた。

「そういうクレームがくることは予想してたんだ。だからこっちでも探してみるよ。犬をもらってくれる人。それなら文句ないだろ」

「は、はい」

 なんだかクレーマー扱いされている。

「じゃあ、そういうことで」

 電話は一方的に切れた。

 これが管理人公認の顛末か。

 話はわかったが、簡単に引き下がれない。こんなときルールはルールと、声を大にして言いたい。 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る