吉凶相交 館野 1

 クライアント先が家に近いから直帰したいところだが、それを許さない上司だった。今日中に社外持ち出し不可のパソコンで、報告書をまとめなくてはいけない。

「ただいま帰りました」

 部署に戻ると、課長の松永以下五人が、まだ残っていた。時間は午後八時。いつもの光景である。

「館野君さあ、ちょっと」

 粘着質の松永の声に、びくりと肩が震えた。もしかして何かやらかしたか。頭にかっと血が上り、足元が冷たくなる。無意識に頬や首をポリポリと掻いた。

 自分の机に鞄を置いてから、松永の机の前に立った。

「遅い!」 

 叱られて肩をすぼめる。

「すみません」

「これ、昨日の報告書。数字が一ケ所違うから」

 こちらに投げられたA4用紙がふわりと舞う。館野は無用に手をバタバタさせてそれを受け取り損ねた。 

 松永の舌打ちが聞こえて、館野は焦った。すぐに拾おうとして踏んづけてしまう。

「あのさあ」

 かがんだ館野に、盛大なため息が降りかかる。

「お前のそういうところ、どうも俺、好きになれなんだわ」

「申し訳ありません」

 謝ることしかできない。

「クライアント周りはいつも一番遅くまでかかる。報告書をまとめても数字を間違える。ちょっと注意したら、そうやって委縮する。ねえ、仕事、なめてる? それもと俺のことが嫌いでわざとやってる?」

 こんなときなのに頭の中にぼんやりと霞がかかっていて、松永の言葉が耳に入ってこない。

「なあ、聞いてるの? もしかして寝てるとか。いい度胸してるよな!」

 松永の声が大きくなっていて、はっとした。

「すみません」

 また頭を下げる。

「もう話は終わった。ちゃんと今日の報告書をまとめて俺の机の上に置いて帰るんだぞ。いいな」

「はい」

「当然、昨日の報告書も訂正するんだ」

「はい」

 松永は立ち上がると鞄を持った。

「じゃあ」残っている他の社員に声を掛けて帰って行く。

 松永が出て行くのを見届けると「くそが!」と吐き捨てるような声がした。多分今のは中川だ。松永がいない場所で、社員たちの不満が溜まっていく。

 いつものことなので、機械的に自分の机に着いた。誰にも見られないようにあくびをする。このごろ寝不足で、疲れた溜まっているのだ。

 部屋の空気は気だるく、ソースや油、そしてどこか酸っぱいすえた臭いが充満していた。

 そんな中でコンビニ弁当を食べながら昨日の報告を確認していると、日にちが一日ずれていた。これは数字の間違いに違いなく、伝票なら大変なことになりかねない。しかし数字が違うと言われた館野は、発注数や利益の方ばかりに気を取られ、訂正箇所を見つけるのに長くかかった。

 その後今日の業務報告書を作成すると、十一時になっていた。

 終電に間に合いそうでほっとして、首筋を掻く。

 ところが部屋を出ようとすると、新開がパソコンのデータが消えたと慌てていたから、復元を手伝っていたら終電を逃してしまった。結局応接ソファで毛布に包まり、仮眠を取ることになる。ちなみに当の新開は旦那さんが車で迎えに来て、謝りながら帰って行った。

 営業二課はいつも誰かが松永課長に叱られている。配属された当初は、松永のいじめのような指導を受け、ショックを受けた。初めにガツンと強く言うことで相手を自分の思う通りに動かす松永の人心掌握術なのかもしれないと思い当たったのはずいぶん経ってからだ。恐怖政治ようだが、それなりに営業二課は成績がよく、松永は上層部からの受けがいい。だけど、部屋の雰囲気は最悪で、大きな声で歓談するような社員はおらず、ずっと卒論前の研究室のように空気が疲労している。いや研究室の方が何倍もましかもしれない。あれには明確なゴールがあり、終われば解放される。


 次の日は、日付を跨がずに、帰路につくことができた。

 暗い電車の窓に映った自分の顔がゾンビみたいで、笑ってしまいそうだ。

 学生時代のあだ名は〝コロちゃん〟だった。弛んだお腹周りをいつもからかわれ、もう少し痩せたら格好良くなるのにと、無責任なことを言う女子もいた。でも、たった入社四ヶ月で、目がくぼんで頬がこけた自分は人相が悪く、格好良いとは程遠い。

 マンションに着くと五階まで階段を上がる。エレベータは使えない。途中で汗が噴き出し腿がぷるぷると震えたけど、家のベッドを思い出して乗りきった。

 階段を上がり非常扉を開けると、非常灯の灯る廊下を歩いた。

 自分の部屋は503号室。

 途中の502室の前には子どもの自転車と傘が立てかけられていて、傘に犬のリードがだらりと巻き付いていた。

 鼻の奥がむずむずしてきたので慌てて自分の部屋に入る。

 エアコンと空気清浄機を点けると、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。

 

 体が重い。もう息をするのだって億劫だ。

 そう思ったのに、眠りはなかなか訪れなかった。頭の中で松永の怒声がずっと響いている。

「やる気があるのか」「馬鹿なの?」「能力がない」「帰れ!」

 自分はもっとやれると思っていた。学校での成績はあまりよくなかったけど、人柄は褒められることが多かった。「コロちゃんがいると周りが明るくなる」とまで言われ、営業職に就きたいと言うと、ぴったりだと納得された。相手に警戒心を与えない自分の風貌は、物を売る仕事に向いているらしい。

 館野が採用されたのは医療機器を売りに歩くメーカーだった。御用聞きのように決まった曜日の決まった時間に企業や病院を訪れて注文された商品を届け、さらには新商品の紹介をする。相手をするのは医者や研究者なわけだが、ここではコロちゃんがいたら明るくなると言われた営業力は発揮できなかった。にこやかに接すると、研究者タイプには受けが悪いのだ。一度注文を間違えて謝りに行くと、いつも不真面目だから間違うのだと日ごろの態度を責められた。それからはできるだけ真面目な表情を心掛けている。

 松永の怒声を思い出しながら、明け方になって、うつらうつらし始めたら、甲高い犬の鳴き声が聞こえてきた。「キャンキャン」というまだ仔犬のそれで、妙に神経に触る。時計を見たら六時だった。

 ああ、まただ。

 眠りに落ちかけた意識が浮上する。 

 ここ一週間ぐらい、壁一枚隔てた向こうに犬がいる。隣には三十代の女性と、小学校に通う女の子が住んでいるはずだった。そこに犬が加わった。

 隣の住人も眠っていたのだろう。犬を叱る大人の声がする。それでも犬は鳴き止まない。 

 すっかり目が覚めてしまったものの、起き上がる気力はない。寝返りを打ちながらベッドの中で過ごす。

 出社時間は九時だから、あと二時間は眠れるはずだ。でも一度覚醒した意識は二度と沈むことがなく、今日一日上手くやれるだろうかと考えると、返って目は冴えた。

 心地よいはずの睡眠が、この頃思い悩む辛い時間になっていた。

 そもそもこのマンションは、ペット禁止であったはずだ。だから入居を決めたのだ。はじめのころは、ちょっと預かっているだけだろうと楽観したのに。   

 八時になって、のろのろと起き上がる。

 体が疲れていても眠れないことがあると、社会人になって知った。

 体が重力を感じる。

 それでも会社へ行かなければならない。遅刻なんかしたら、何を言われるか。

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