秋人2

 研究室で一緒になるまでの原口の印象は、頭がよくて論理的な思考をする人、

だった。

 学生実験で二回ほどお世話になったことがある。

 学生がちょっとくらいミスをしても、淡々と考察をして、次はミスをしないように指導した。でも出席日数や提出物には厳しく、一定の基準に達しなければ容赦なく単位を与えない。

 そんな原口が溝口なんかに付け込まれるなんて意外過ぎて、返ってそういうものかと納得しそうだ。天は二物を与えず。頭はいいが、人の悪意には鈍いのかもしれない。

「カラスからお礼を言われたぞ」

 疲れていると思っていたヨシムネがいきなり話し始めた。しっぽがゆらゆら揺れている。

 庭の緑は、光合成に忙しそうだ。青いアジサイが、柏餅のような匂いを発している。

「今回は、カラスにも手伝ってもらったのか?」 

「ああ、〝ココミ〟に毎朝来てる男のことを、カラスも知ってたんだ。お前、カラスに貸しがあるんだろう」

 以前果樹園で、カラスがネコの子を咥えているのを見たことがある。その話をしているようだ。

「なにもパンをやらなくてもよかったのに」

 悪食なカラスはネコの子も然り。何でも食べる。石を投げるとカラスは咥えていた子ネコを落とした。子ネコは素早く逃げたのだが、それでは餌を無くしたカラスがひもじいだろうと思って自分のパンを投げたのだ。

「いや、それがさあ、童謡に、『カラスは山に、可愛い七つの子があるからよ』っていうのがあるんだ。子どもが七つだぞ。食べられそうだった子ネコも可哀想だけど、餌を無くしたカラスの親子も可哀想だろう。だから持ってたパンをやったんだ」

「自分がひもじい思いをしてどうするんだ」

 べつに自分がもっていたパンをやったところで、飢え死にするわけじゃない。ちょっとお腹が空いただけだ。だけどもし自分がパンをあげなかったら、カラスの子は飢え死にしたかもしれない……と後で思った。あげたのは反射だ。でもそのせいでネコとカラスの両方に恩を売ったみたいだ。

「あいつらがオレたちに手を出したことは、絶対に許さない。これぐらいの協力は当然だ」

 カラスがあのままネコの子を食べていたら、ネコVSカラスの全面戦争になっていたのかもしれない。

 そんなあり得ない想像をしながら、原口の母親が無事でよかったと、心の底から思った。


 一週間が過ぎ、原口はお金を返してくれた。

「いいんですか?」

 流石と言うべきか、円単位まできっちりしている。

「ああ、家を売ったから、大丈夫だ」

 家?

 まさか俺にお金を返すためにそこまでしたのか? 重いんだけど。

 それに、今どこに住んでいるんだ。

「ちょっと、待ってください」

 慌てた秋人に、原口はビニール袋を差し出した。ベーカリー〝ココミ〟のロゴがある。中にはあんパンとクリームパンが入っていた。

 それからなんか身をくねるような変な動作をしながら「これはヨシムネ君」とケーキ型の箱を渡された。

「それで、ヨシムネ君というのは……」

 聞きかけて口元をきゅっと引き締め「いや、いい」と、結局何も聞かずにいる。

 ヨシムネを人間だと思っているようだ。

 ココミはヨシムネのことを詳しく話していないのだろう。

 後でヨシムネに聞いたところによると、普段からココミさんはヨシムネに、ベーカリー経営の難しさや人間関係について話していたらしい。当然自分の言葉がわかるとは思っておらず、愚痴の吐き出しどころのようなものだったそうだ。ヨシムネもそこはお約束で、あくびをしたり途中で立ち去ったりと、わからない振りをしていた。でもあの日、原口の母親が倒れた日、酷く取り乱していたココミに、ヨシムネの方から話しかけた。原口の居場所を突き止めるから、病院で待っていて欲しいと。

 ココミは驚いたものの、その時はヨシムネの言葉に従うしかなく、自分だけ病院に駆けつけ、原口の到着を待った。

 今ではココミもヨシムネが人の言葉を話すことを受け入れてくれているようで、時々話をしているらしい。

 まあ、ヨシムネが原口に対して話しかけるとは思えないから、言っても信じないだろう。人間の言葉を話せることを知られたくないというヨシムネの気持ちを尊重してくれるココミに、改めて好感を持った。


 梅雨が終わってよく晴れた朝、原口に関する朗報が二つ舞い込んだ。

 一つは修士二年の梅原からだった。

「原口さんが例のパン屋から出て来るの見たんですけど」

 大ニュースとばかり興奮している。

「それって、〝ベーカリーココミ〟ですよね?」

 秋人は二人が親しいことを知っている。

「原口さん、いつもあそこのパンを買ってるから、不思議じゃないですよ」

 向井は冷静だ。

「違うんだって。店じゃなくって、家の方」

 まるで住んでいるみたいだったと言う。

「それで俺、『パン屋さんに就職ですか』ってからかったら、原口さん怒ってさあ。そしたらそこに店の人が出て来たんだ。ほらあの太ったおばさん」

 梅原の心美の描写はひどいと思ったが、先が気になって黙っていた。

「仲よさそうに、原口さん〝ココミ〟のロゴが入った袋を受け取った。それで今度は冷やかしたんだ。『新婚ですか』って」

 梅原はその時の反応がおかしかったみたいで、にたりと笑った。

「そしたら原口さん『そうだ』だって。あのパン屋のおばさんと原口さん入籍したんだって。信じられるか。あのおばさんはないわ。毎日パンくれるから、原口さんほだされたんだな。まあ食べることには困らないと思うけど、あれは血迷ったな」

 一緒に住んでるんだ。

「ひどくないですか。いい人ですよ」

 そうか二人結婚したんだ。知っている二人がくっついた経験など初めてで、心の中がじんわりと温かくなる。

 心美はパンを作ることと同じぐらいに原口のことを大切に思っている。意地悪なところは全くなく、おおらかで、一緒にいたら安心する人だ。ポスドクの原口は運も要領も悪く、報われない。三年生の秋人から見ても気の毒な人だ。そんな原口が心美に惹かれるのは当然のことで、こっちまで嬉しくなる。

「おい、なに人の嫁の悪口言ってるんだよ」

 そこに原口が現れた。梅原は手で口を押えている。

「梅原はまだ修論のテーマ決まってないだろう。教授に自分からアポ取って決めないと、論文書けないぞ。あの人、学生のことに興味ないから」

 どこか遠い目をしながら原口は言う。

「はーい、すみませーん」

「ということで、入籍したんで」

 原口は研究室のみんなを見回した。

「えー、それ、本当なんですか」

 向井が驚きの声を上げる。

「おめでとうございます」 

 心を込めて言うと、ぎろりと睨まれた。

「ヨシムネ君にも伝えておいてくれ」

「ヨシムネですか?」

 けん制してるとか?

「ああ、心美の奴、この頃ヨシムネ君の姿を見ないって心配してるんだ」

「あいつ気まぐれだから」  

 この人、まだヨシムネがネコだって知らないんだ。吹き出しそうになったが、原口があんまり真剣な顔をしていたから我慢した。

 

 そして二つ目の朗報も突然だった。

 ゴールデンウィークに父親を亡くした助手の能勢が、実家に帰ることになったのだ。能勢の父親は市会議員をしていて、後援会のたっての願いで、地元に帰って地盤を引く継ぐことになったとか。

 能勢は迷ったようだが、いったん決心をすると、行動は速かった。種田教授に辞表を提出して私物を片付け、晴れやかにみんなに挨拶をした。「後は頼む」と原口の肩を叩き、原口の方が涙ぐんでいた。

 そういう訳で、能勢の後釜に原口が収まった。

「結婚祝いになりましたね」

 種田教授はそんなことを言ったが、秋人は同意する気にならなかった。原口の正規採用は、お祝いとして誰かに与えられたものではなく、原口の努力の正当な報酬だ。

「本当に、いいんですか?」

 原口は実感が湧かないみたいでぼんやりしている。

「早く、奥さんに知らせないと」

 久保准教授に言われ、原口はスマホを持って研究室を出て行った。

 原口はこれからも研究を重ねて論文を書くだろう。

 非正規でも正規でもそれだけは事実だ。

 そうだ。家に帰ったらヨシムネにも教えてやろう。あいつ、フンと気のない振りをするかもしれない。でも心の中では喜ぶはずだ。

 ヨシムネは心美のことが大好きなんだから。

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