秋人1
黒猫のヨシムネはよく大学に現れた。
雑然とした雰囲気が気に入っているみたいだ。校舎の隅で日向ぼっこをするのを見かけることがあった。でも学生にかまわれるとうるさそうにしたので、秋人の方から声はかけなかった。
時間はその日のお昼までさかのぼる。
ヨシムネが秋人に向かって顎を引くようなしぐさで〝こっちに来い〟的に誘ったから、いぶかしく思いながら後を付いて行った。
場所は農学部の実験圃場、甘酸っぱい香りがする果樹園だった。
「どうしたんだ?」
周りに人がいないことを確かめると、ベンチに座った。ヨシムネはひらりと隣に収まる。正面のリンゴの花は満開だ。
「お前の知り合いに、ハラグチっているだろう。今すぐ伝えて欲しいことがある」
「原口さんって、うちの部屋の先輩だけど、急にどうしたんだ?」
「お母さんが倒れたそうだ。病院に運び込まれたんだが連絡が取れないらしい。ココミさんが心配してるんだ」
ココミというのが誰なのかわからないが、今は原口のことが気になる。
「まじ? 原口さん、デートだって言ってたんだけど、どこに行ったんだろう」
こんなことならさっき無理をしてでも、行き先を聞いておけばよかった。実はあまり原口によく思われていないみたいで、話しかけにくいのだ。
「それはこっちで調べがついてる。でもほら、ネコじゃあその原口って奴に伝えられないだろう」
「こっちって、ああ、ネコネットを使ったのか」
夜の集会に毎晩参加しているヨシムネの情報網には、毎回驚かされる。
「今回はカラスも使った」
お前ら仲間かよ。
「で、原口さんはどこにいるの?」
ヨシムネをリックに入れると原付を走らせた。目指すは隣の区にあるHホテルだ。デートだと言っていたから、溝口結奈の趣味だろう。バイクを駐車場に置くと、ヨシムネはリックから飛び出した。ホテルには入らないつもりらしい。
ジーンズとシャツという普段着の秋人はドアの前で怖気づいているのに、ドアボーイは慇懃に挨拶してくれた。
玄関ホールが広く、正面の目を引く場所にオブジェみたいな生け花がある。
エレベーターの横にある案内板で、二階にあるフランス料理店を見つけ、エスカレーターを上がった。
廊下は暗く、赤い絨毯が続いている。目的の店を覗くと、無人のクロークがあった。
気後れして入れないでいると、白い塊がボールみたいにぴょんぴょん跳ねながら、店から出て来た。
「危ないな」
ぶつかりそうになったので思わず呟くと、それは溝口だった。原口のデート相手で、秋人の同級生だ。教育課程が同だから何度か話したことがある。
「何よ、あの人。全然お金持ってないじゃない」
溝口は秋人を見つけて、わざとぶつかって来たみたいだ。頭から火を吹いている。
「あの人って、原口さん?」
「そうよ。東京で持ち家だって言うから、たかってやろうって思ったのに、反対にお金貸してくれって頼まれちゃった」
「いい加減にしろよ」
溝口はすぐ男にたかるしパパ活もしている。匿名で投稿しているSNSでその様子を語っており、同級生にはそれが溝口だとばれている。うちの研究室の原口をターゲットにしていると知って生協で釘を刺したことがあるが、全く効果がなかったみたいだ。
「そうだよね。うちの大学じゃ、たいした相手は見つけられないってよくわかったわ。藤君の忠告に従っておいたらよかった」
溝口のために忠告したんじゃない。
「それで原口さんは?」
溝口なんかにかまっていられない。
「ああ、置き去り。デザートを食べてさっさと出て来てやったわ。お金ないって言ってたから、今頃困ってるんじゃない」
こいつ人間じゃないな。
「最悪よ、このお店一度来てみたくて楽しみにしてたのに、嫌な思い出になったわ」
悪魔だ。
意を決して店に入ると、ペンギンっぽいギャルソンに止められた。でも事情を話すと、真剣なことが伝わったのか、入店を許された。
店は外の光を取り込みながらも、シャンデリアが輝いていた。椅子も机も曲線が美しい猫足。こういうのを何とか調とか言うのだろうが、残念ながら秋人の知識にない。
自分には一生縁がない店だと思うけど、窓と窓の間の少し陰になった席に、自分よりもっと縁がないはずの原口が、背広姿で悠然と座っていた。小さなカップに指を通し、エスプレッソを味わっている。
なんか似合ってるんですけど。
いや、あの人、お金ないはずだって。
しばらく見ていると、原口はエスプレッソを飲み干してしまった。名残惜しそうに小さなカップの中を覗き、もう一滴も残っていないことにため息をつきながら、テーブルにあったプレートを掴む。
ずかずか進んでテーブルの前に立った秋人に、原口は驚いているみたいだ。
「どうしたんだ?」
「原口さん、すぐに病院へ行ってください。お母さんが倒れました」
秋人に言われて、原口はすぐにスマホの電源を入れた。着信の多さに驚いているとき電話がかかってきて、小声で出ている。
心美さんからで、事態を正しく把握してくれたみたいだ。こんなところで電話なんてと非難してくる視線に、ぺこぺこ頭を下げて秋人が謝る。
「ごめん、藤、実は……」
原口が手にしているプレートを抜き取ると、財布からなけなしの1万円札を出して、原口に渡す。バイト料が入ったところでよかった。
支払いをカードで済ませると、原口にはタクシーで病院に向かってもらった。支払いのことは考えないでおく。
駐車場で待っていたヨシムネが首尾を聞きたそうにしているので、簡単に事情を説明して自分たちも病院へ向かった。
その後、秋人たちは病院に着き、原口の母親の手術が無事に終わったと知ると帰宅した。
縁側で、ヨシムネは四本の足をぐたりと延ばし、へばっている。
「原口さんのお母さん、よかったな」
原口が言うとヨシムネはしっぽを持ち上げた。でもすぐにぱたりと倒してしまう。
「ココミさんってちらっと見ただけだけど、感じのいい人だったな」
ネコが食べられるパンをわざわざ焼いてくれるというココミさんは、原口さんのことを心から心配しているようで、嘘がない頼れる人に見えた。
「そうなんだ。よくペット用のパンを売っている店ってあるんだけど、あの人はただ遊びに行くオレたちのためだけに、パンを焼いてくれるんだ」
疲れている割には、ココミの話をするときは饒舌になる。
「それで助けたくなったんだな」
ヨシムネは基本、人間の生活には口を出さない。富む者も溺れる者も静観する。だけど一度スイッチが入ると、とことん面倒を見るタイプであることは、秋人もよく知っている。
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