8

 そのとき大股で、男が店に入って来た。ジーンズ姿でリックを背負っている。手にはバイクのヘルメットを持っていた。

 同じ研究室の藤だ。

 まさか藤もここで食事か?

 そう思ったら、きょろきょろ辺りを見回した藤は、原口を見つけると近づいて来た。

「原口さん、すぐに病院へ行ってください。」

 テーブルの脇に立って言う。

「お母さんが倒れました」

「へっ、なんで? お袋立ったりできないよ」

 間抜けな返答をしてしまい、藤の言葉の意味が「倒れる」という動作のことではなく、何らかの病気が発覚したのだと、じんわり理解した。

「すぐに、スマホの電源を入れてください」

 混乱しながら言われるままに電源を入れると、着信が15件きていた。〝きんもくせい〟から3件と心美から10件、残りは藤だった。

 心美からメールもきていたので読もうとすると電話が鳴った。本人だ。

「はい」

 声を潜めて出る。藤は周りに迷惑がかかることを気にしたのか、頭をぺこぺこ下げながら、さっきまで結奈が座っていた椅子に座った。

「ああ、千紘兄ちゃん?」

 ほっとした結奈の声が、すぐに緊張した硬いものに代わった。

「すぐに来て、おばさんが倒れたの」

「……本当なのか……」

 病院の名前を告げられる。

「容態はどうなんだ?」

「分からない。今手術中だから」

「すぐ行く」

 いつかこんな日が来ると思っていた。でもそれはどこか他人事で、今だとは思っていなかった。

「ごめん、藤、実は……」

 原口が言い終わらないうちに藤は立ち上がると、ポケットからマジックテープで閉じられた財布を出した。びりびり音を立てながら開いて一万円札を出し、テーブルに置く。そして原口が握っていたテーブルの札を、力を入れずに抜き取った。そのままレジへ行く。

 スマートにカードで支払いを済ませると、「俺もバイクで向かいます。原口さんはタクシーを使ってください」と言い残して藤は消えた。

 突然目の前に現れて藤に混乱している。でも問い正そうにも、今は母親のことが心配で、一刻でも早く病院に行きたい。

 ホテルの車寄せにあったタクシーに乗った。

 病院に向かう途中で、バイクに乗った藤を見かけ、あれっと思った。

 背中のリックから丸く黒い物が出ている。

 不思議に思ってもっとよく見ようとしたのに、見失ってしまった。

 病院に着くと心美に連絡をした。待合室は病気の不安を抱えながらも命がある人たちでにぎわっている。

 しばらく待つと、心美が受付まで来てくれた。仕事着の上に黒いパーカーを羽織っている。

「千紘兄ちゃん」

 心美は真っ赤な目をしてその場に膝を付いた。泣いていると知ると、原口は最悪の事態を覚悟した。

「お、おそかった?」

「う、ううん、手術、成功したって」

「な、なんだよ……」

 体の力が抜け、心美の横にしゃがみこんだ。そんな原口たちを受け付けの人が心配してくれる。

 しばらくすると主治医から説明があると言われたので、カンファレンスルームに向かった。手術室のある入院患者の棟は外来と比べて静かで、その分死に近い気がする。これからも母親のことは心配だし、お金のことで苦労するだろう。だけど心配できるだけで、幸せなのかもしれない。

 主治医を待つ間、部屋の前にある長椅子に心美と並んで座っていた。

「千紘兄ちゃん、ずっとスマホの電源切ってたでしょう。それで施設からうちに電話がきたの」

 心美が経緯を説明した。そういえば入院時、心美の父親に入院時の第二保証人になってもらった。

「ありがとう」

 心からお礼を言った。

「藤と知り合いなのか?」

 気になっていたことを訊いたとき、当の藤が現れた。手にヘルメットを持っている。背中のリックを見たらきっちりチャックが閉まっていた。

「あの?」

 藤は原口と心美を見比べて、心美に頭を下げた。その様子によそよそしさを感じる。

「手術は無事に終わったから。これから主治医のカンファレンスがある」

「そうですか。とりあえずよかったです。それじゃあ、俺はこれで」

 用が済んだとばかりに行こうとした藤を、心美が呼び止めた。

「あのう、もしかしてヨシムネ君の知り合いですか?」

 藤は立ち止まった。心美を見て柔らかく笑う。

「はい、友人……というか友達です」

 言葉を選びながら藤は続けた。

「原口さんの居場所を突き止めたのはヨシムネです。あいつには特別なネットワークがあるんですよ。俺は原口さんに伝えるよう頼まれました」

「本当にありがとうございます」

「いえ、ヨシムネから心美さんのことはいつも聞いてました。自分たち用にパンを焼いてくれるんだって喜んでます」

「そんなことで? 私はただパン作りが好きなだけなのに」

 藤はこれ以上邪魔をしてはいけないと思ったようだ。今度こそ頭を下げて、行ってしまった。

「ヨシムネってやつに俺のこと頼んだのか?」

 そう聞くと心美の目が泳いだ。

「うん、そうだけど……」

「それでヨシムネが藤の知り合いで、藤が俺に伝えに来た」

「だって、仕方がなかったんだもん」

 心美はまるで浮気を疑われているみたいに動揺している。

 藤のことはあまり好きじゃなかった。ぼーとしているのに女にもてるみたいだし、将来は公務員になりたいなんて平気で言う。それならわざわざ工学部に来なくてもいいだろうと口にすると、どうせ公務員になるなら大学時代は好きなことがしたいじゃないですかとけろりとしている。そりゃうちにきた奴みんなが、研究室に残りたいと言ったらパンクするが、あっさりし過ぎてスマートだ。研究室にしがみついている自分が馬鹿にされているような気もする。

 それに名前のこともある。苗字が〝藤〟で名前が〝秋人〟。〝藤〟といえば春だろう。それなのに名前が〝秋〟って、絶対優柔不断だろ。本人についてよく知らないくせに、どうせ中途半端な奴だと勝手に決めつけていた。それに梅原に聞いた話もある。カラスに石を投げつけたなんて、絶対嫌な奴だ。

 自分が狭量で嫌になる。

 でも、今回のことですっかり藤を見直した。あの登場の仕方は反則だろう。ピンチに現れて助けてくれるなんて、自分が女なら惚れている。カラスに石を投げたことだって、訳があったに違いない。

 呼ばれてカンファレンスルームに入ると、自分と同じぐらいの年齢の医者が、状態を説明してくれた。

 母親は脳出血だったが発見が早かったので、脳にたまった血液は少なく、無事取り除くことができたらしい。すぐにリハビリを受けることになるそうだ。

 部屋を出ると一瞬だけICUに入ることが許された。

 ベッドにかけられている青い布が微かに膨らんでいる。そこに母親がいるのだと言われ、目を凝らす。

 母親の体が薄すぎて頼りない。

 急に申し分けなくなった。

 一生懸命育ててくれたのに、三十二歳にもなって安定した職に着けていない。こんなダメな息子でごめん。

 ICUの外で、心美は待っていた。送ってくれると言う。こんなに親身になってくれるのに、パンを恵んでもらったことに腹を立てるなんて、なんて馬鹿だったんだろう。意地を張らなければよかった。

「車で来たのか?」

「うん、一分でも早く来たかったから」

「ありがとう」

 原口は免許さえ持っていない。

「じゃあ、車、回してくる」

「いやいい、一緒に行くよ」

 入り口にまで来ようとしてくれたのを断って、一緒に地下駐車場へ行く。心美の車は業務用のミニバンだった。

 当然のように駐車料金を払う心美を助手席で見ながら、自分がまた情けなくなる。その駐車代の500円でさえ自分は惜しいのだ。

 鼻をすすっていると、心美は勘違いしたみたいだ。

「おばさん、無事でよかったね」

「いや、違うんだ……実は……」

 原口は、今日はデートで誰にも邪魔をされたくなかったからスマホの電源を切っていたことを話した。でも相手にはその気がなく、非正規雇用で貧乏だと知られて振られてことも。

 心美にティッシュを渡され、思う存分鼻をかんだ。

「ねえ、千紘兄ちゃん」

 車が赤信号で止まる。ベビーカーを押す母親が目の前を過ぎて行く。

「そんなに結婚したかったのなら、私がしてあげようか?」

 思わず吹き出してしまい、鼻水がフロントガラスまで飛んだ。慌てて拭こうとしたけど、シートベルトで阻まれる。

「なんだよ、その上から〝してあげようか〟って」

 心美は昔から成績が悪くて、いつも面倒を見てやっていた。それがなんだよ。偉そうに。

 隣の心美は耳が赤くなっていて、それがなんだか可愛いと思ってしまった。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る