7
ホテルに到着すると、戦場に赴く気分で中に入った。今回は原口の方が先に来ているみたいだ。
何気なく予約してある店に入り、原口は唖然とした。
レースのカーテンに白いテーブルクロス、天井のシャンデリア。フランス映画で、貴族がこういう場で食事をするのを見たことがあるが、自分が足を踏み入れるとは思っていなかった。
ロココ調の柱近くに案内される。
店の中は明るく、ランチのせいか、主婦が多かった。みな化粧が濃い。場違いな思いをしながら入り口付近をぼんやり見ていると、結奈が現れ、原口に向かってにっこり微笑んだ。
「遅くなって、ごめんなさい」
「待ってないよ」
首と袖がゆったりとした白いブラウスに、短めのスカート。ブランドは知らないが、いつもより着飾っているように見える。
席に着くと結奈はすぐに料理を選び始めた。
真剣な表情で、次々に注文をしていく。それに比べて原口は今回もコースにした。さっぱりわからない。最後に結奈はノンアルコールのカクテルを頼み、少し得意そうに原口を見た。アルコールは飲まないアピールらしい。原口なミネラルウォーターにする。
彼女はなぜいつもこういう場所を指定するのだろう。雰囲気が好きなんだろうか。
頭の中で計算すると前回のイタリアンより1万円程度高くなっている。でも結奈の選択なので気にしないことにした。
それにしても、自分は本当に結奈ちゃんの結婚を望んでいるんだろうか。彼女はこういう場所でいつも食事をする。ここの一回分の料金代が、原口の一か月の食費を優に超えると話したら、結奈ちゃんはどんな反応をするだろう。
なにもかもがどうでもよくなってきた。
大学を辞めることと続けることの間に架かった橋の上で、ずっと自分は右往左往している。
母親をうちで介護すれば、その間は年金をそっくり使える。息子に介護されるのを嫌がった母親も、今は自分に息子がいることを忘れている。介護付き老人ホームが空いたら働きに出ればいい。そうすれば地味でも単調でも自分にできることで、社会貢献ができるんじゃないか。
「ねえ、原口さん、聞いてる?」
考え込んでしまっていたようで、結奈に注意された。見ると彼女は、ほとんど手をつけていない。写真を撮りたいのはわかるが、その肉は焼き立てを食べた方がいいんじゃないか。プチトマトやベイリーフを皿の隅に寄せているのは食べないのか。ソースが残ってるじゃないか。
一度気になると、不満があふれ出す。
原口の方は思考の迷路をさまよいながらも、しっかりキャビアの何とか風もパイ側に包まれた野菜も、焼き加減が絶妙な肉もきれいに平らげていた。ソースが残った皿を下げようとしたウエイターを止めて、パンでソースをふき取ったぐらいだ。誰も見ていなかったら舐めていたかもしれない。イタリアン以来のまともな食事だから、原口にしたら当然だ。
「……私はそれでも原口さんとのお付き合いは続けたいと思っているんです」
ここでやっと、結奈の話が耳に入った。
「ごめん、もう一度言ってくれるかな」
「だから、パパが、私たちのおつき合いを反対してるの」
結奈はナフキンで顔を覆った。原口も部屋に呼ばれて釘を刺されている。そうか、結奈は心配事があって、食が進まないのか。
「それでカードを止められてしまって」
実力行使に出たか。
それにしてもなぜここまで反対するのだろう。
「ここの料金も払えないです」
息を飲んだ。今なんて?
ここの料金が払えない?
同情しかけた気持ちにストップがかかる。
「それどころか、生活費にも困ってて」
「生活費って、結奈ちゃん、実家暮らしじゃないの?」
まず気になったのはそこだ。
「大学生になったら一人暮らしがしたいって、ずっと思ってたんだもん」
子どものように口を尖らせる。家から通うことができるのに、親からお金を出してもらって一人暮らしか。
価値観や考え方が違い過ぎた。
「だから少しでいいから、援助してもらえませんか。つき合っちゃたら、パパも許してくれると思うんです」
結奈が口元を引き上げた。
これは笑顔だよな。でもなぜここで笑えるんだ。
髪はきれいに整えられているし、服装に乱れた様子はない。お金がないと言いながらフランス料理を予約するぐらいだ。彼女と原口では、お金がないという基準が違うのだろう。
「ここの支払いはどうなるのかな」
一番気になるのはそこだった。
「だから、カードの支払いを止められているからできないの。でもパパが許してくれたら払えるし……」
結奈はこちらを伺うような目をする。
「それは……できない。俺もお金に困ってる。大学の研究員っていってもポスドクでアルバイトみたいなものなんだ。お袋が入っている施設の代金を払ったら毎月赤字で、今日は結奈ちゃんに援助してもらえないかと思って来たぐらいだ」
心の中をさらけ出すと、急に楽になった。
「あと二か月もすればもう少し安い施設に移ることができる。そうなったら返せるから、お願いします、5万、いや3万でいいんだ。貸してもらえないだろうか」
「はあ?」
結奈が語尾を上げて驚き、それがなんだかヤンキーみたいで、原口は呆然とした。
「これ、下げてもらえますか?」
結奈がウェイターを呼んで、金縁の皿を指さした。皮が反り返った白身魚の周りは、赤いソースで円が描かれている。
「デザートをお願い。紅茶も一緒よ」
命令口調の彼女から、今までのほわんとしたお嬢さん然とした雰囲気が抜け落ちていた。
「あのさあ、原口さんって東京23区に住んでて、持ち家なんでしょう。私にお金を借りるぐらいなら家を売ったらどうなの」
何度もそれは考えた。
「それは……」
「あー、やってられない」
運ばれてきたイチゴのミルフィユに目を輝かせながらも、結奈の口調は辛らつだ。その豹変ぶりに、原口の脳は戸惑っている。
「そんなに貧乏だって知らなかった」
「申し訳ない」
恥ずかしさで顔が赤くなる。
「つまんない研究の話聞かされて、はいはいって相槌を打ってあげて、完全に時間を無駄にしたわ。ねえ、夜中のラインにわざわざ返信したの、なんでだと思ってるのよ」
「それは……父親みたいな研究者に憧れてるからで……」
研究者であることが、唯一の矜持だ。
「キモイんですけど。父親に憧れる娘なんているわけないじゃん」
「そ、そうなの?」
結奈がホークをパイに突き刺すと、中からクリームとイチゴが飛び出した、それを気にせず上から食べていく。
「言っとくけど、あんたの言ってる種田教授って私の父親じゃないから。パパだよ」
最後に残ったパイ皮を手で摘まんでいる。
ときどき『パパ』と言っていたから父親だと思っていたが違うのか。
それじゃあ『パパ」って、別の意味の?
自分の勘違いに気がついて叫びそうになったとき、原口にデザートが運ばれてきた。アイスと果物が芸術的に盛られている。
「そうだよ。『パパ』SNSで知り合ったの」
ウエイターが行ってしまってから、結奈は続ける。
あまりの内容に、デザートの味がしない。
「はじめはお互い素性を知らなかったんだ。でも大学でばったり会ってびっくり。うちの大学の教授だったんだもん」
それは、種田教授の方が驚いたと思う。
「それでときどき研究室にお邪魔して、お小遣いをせびってたわけ」
それを自分は父親だと勘違いしたのか。
「なんか家で奥さんと娘さんに虐げられてるんだって。愚痴を聞いて、子どもみたいに頭を撫ぜてあげる。ときどき言う通りにしたかな。そしたら結構いいお小遣いくれるんだよね」
あっけらかんと言われて驚いた。種田教授って、研究のことしか考えない、もっとストイックな人かと思っていた。でも本当は虐げられてストレスを溜め込み、それをお金を使って若い女の子で解消する、下卑たおっさんだったみたいだ。
自分と結奈がつき合うことを頑固に反対した理由に、納得した。
そして結奈が自分に近づいたのは、お金があると思ったからか。
「ああ、しょぼかったな、二回ランチしただけか」
結奈が立ち上がったから、慌てて止めようとした。
「待ってくれ、ここの支払いどうするんだ」
「男なんだから、それぐらい自分で何とかしなよ。カードぐらいあるでしょう」
小さなかばんを肩にかけ、結奈は大股で去って行く。
「おい、待てよ!」
カードを持ってないんだ。
声を荒げると、周りの視線が原口に集中した。ウエイターが寄って来て「お客様?」と声を掛けれらる。
今すぐ結奈を捕まえて、ここを払えと詰め寄りたいのに、足に力が入らなかった。
最後に出てきたエスプレッソをゆっくり味わいながら、レジで土下座をする自分を思い浮かべた。食い逃げではないから刑事的な罰に問われることはないだろうが、支払いを待ってもらえるだろうか。大学の研究員といっても非正規だから信用がない。
ちびちび飲んだのに、ただでさえ量が少ないコーヒーはすぐになくなってしまった。
ホテルのランチの時間がいつまでかはわからないが、客が減ってきている。
ウエイターがこちらを気にして、チラチラ見てきた。
主婦の集団がいなくなり、原口は観念した。テーブル番号の書かれた札を持って立ち上がる。
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