6
結奈との関係に特に進展がないまま一か月が過ぎようとしている。その間研究に勤しむも、培養しているバクテリアからはこれといった有用な酵素は得られていない。
そうするうちに〝きんもくせい〟の引き落とし期日が迫っていた。家にある金目の物はすべて売り尽くし、家しか残っていない。臨時のアルバイトはないかと他の研究室まで回ってみたが無駄足に終わった。塾へ行ったら生徒から、M大のドクターを出ているのに塾でアルバイトですかと馬鹿にされた。冷凍庫にストックしていた冷凍ご飯が切れて、食べるものが無くなった。学内に生えていた雑草を食べたら、何が悪かったのか腹を壊し、余計にお腹を空かせることになった。
見かねた久保准教授が時々弁当を分けてくれる。
「何がいい? ソーセージ? 卵? 人参?」
弁当箱の蓋の乗せられたそれ等は、たこやハートや花と、すべて子ども用にカットされている。料理の苦手な彼女に代わり、旦那さんが作っているらしい。
「この花形の人参、型抜きされた残りはどうなったんですか?」
「さあ、どうしたかしら」
久保准教授ははっきり言わないが、捨てたんだろう。必要ない部分は捨てる。当たり前かもしれないがもったいない。捨てられた人参が不憫だ。いや、ニンジンにとって食べられることと捨てられることに違いがあるのか。
「ああ、もう。人参に感情移入するのやめてよ。返して」
久保准教授が弁当箱の蓋を回収する前に、慌てて人参を口に放り込んだ。
ああ、甘くて辛くて硬い。でも美味しい。
朝から空腹だったのが、今もらった人参が呼び水になって、さらに腹の虫が鳴きだした。
「これ良かったら」
能勢さんが机の中からチョコパイを出してきた。豚の貯金箱を見ているがとっくに空だ。
「いいんですか?」
「はい。他人ごとじゃないですから」
「じゃあ、俺も」
向井がポケットからガムを出してきた。ガムか……。いや食べたらいいんだ。毒じゃない。
周りの好意でなんとか食いつないでいる状態が何日か続いた。心美に恵んでもらったパンを拒絶した自分を、今では殴ってやりたいと思う。
学生実験で使うスクロースを見ていたら涎が出そうになって、慌てて口を押えた。
このままではいけない。何でもいいからお腹いっぱい食べたい。食べないと頭が働かない。この頃ずっと、〝ココミ〟のあんパンが頭の中で踊っている。
「なんか原口さん、顔色悪いですね」
学生にまで心配されたが、ただの空腹だなんて言えない。
母親のケアーマネージャーに連絡をして、母親の順番を訊くと、あと25人で特別養護老人ホームに入れるということだった。
あと、三、四か月ぐらいか。
もたない。
もう大学を辞めて、母親を自宅で介護しようか。
迷い始めた頃、だめ押しをするように“きんもくせい”の事務係から電話がかかってきた。銀行からお金が引き落とせないとのことだ。
とうとうきたか。
「あれ、お金、足りませんでしたが? ちょっと待ってくださいね、こちらで確認します」
白々しく言うと、なるだけ早くお金を振り込んで欲しいと告げられた。
潮時か。
いや、まだ可能性が残っている。この歳になるまで、夢は一つしか持ってこなかった。その夢を諦めるのだ。最後に醜く足掻いてやる。
心を決めると、行動は早かった。
結奈にラインをする。
〝話があるんだ。明日の昼、時間あるかな〟
結奈の返事も早かった。
〝嬉しいです。お店予約しておきますね。今度は私に奢ら出てください〟
目を付けていた店なのか、結奈は予約して、店の位置情報を共有してきた。ホテルのフランス料理店だった。相当なグルメだ。正直あまり味の分からない自分にはもったいない店だが、奢ってくれるのだし、結奈が行きたいのだから仕方がない。
次の日、スーツ姿で現れた原口を見て、研究室の連中は首を傾げた。
「学会?」
久保准教授に訊かれた。
「デートだ」
藤がその言葉に反応した。
「誰と、どこに行くんですか?」
そういえばこいつは、結奈ちゃんと親しかった。
「結奈ちゃんとフランス料理を食べる」
けん制するつもりで言ってやると、驚いている。
「いつの間にそんなに親しくなったんですか?」
「ざまあみろ」
睨んでやった。
お前が結奈ちゃんに冷たく接しているのは知ってるんだぞ。いまさら惜しくなったのか。
「ちょっと待ってください。なんですか、それ……」
「まあ、藤君に説明する筋合いはないけど」
悪意を込めて言うと、藤は黙ってしまった。
自分は最低だと思う。貧乏過ぎて空腹で、周りが全部敵に見えてしまう。
自転車を駅に近いスーパーに止めた。
電車で二駅。
結奈の選んだのは原口も名前を聞いたことがある外資系のホテルだった。本来なら現地まで自転車で行きたいとこだけど、六月に入って雨の日が多くなった。今日も空の具合が怪しく、濡れてホテルの入るのは避けたい。
電車の中で〝きんもくせい〟から電話がかかってきた.
お金は振り込んでいないから、当然引き落としはできない。
そっと電源を切って窓の外を見ると、芽吹き始めたイチョウに止まるカラスと目が合った。
へ?
ほんの一瞬のことだったからよくわからない。でもカラスがどこか憐れんでいるような目で自分を見ているような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます