5

 とうとう豚の貯金箱に手を付けた。生協に行く。

 大袋のチョコパイとエンゼルパイを見比べた。

 チョコパイは9個入りで429円、1個157キロカロリ―だから、1円で3.3キロカロリー。

 対するエンゼルパイは8個で321円。1個137キロカロリーだから、1円で3.4キロカロリー。

 ということはエンゼルパイの方がコスパがいいことになる。エンゼルパイの大袋を手にレジに向かおうとすると、ピンクのスカートが目に入った。

 結奈ちゃんだ。

 ワンピースに見覚えがある。

 なにもフランス料理まで待つ必要はなかったんだ。同じ大学に通っているのだからこうして偶然会う可能性だってある。

「ゆ……」

 距離を近づけるために声をかけようとした。

「……ええ?」

 ところが結奈は早足で背中の広い男を追いかけて、横に並んだ。

 思わずエンゼルパイを落としそうになる。

「ねえ、藤君。待ってよぅ」

 男は藤だった。藤は三年生で、今年からうちの研究室にきている。

 結奈は原口と話すときとは違い、語尾をのばして甘えるような声を出していた。

「だからそういうの止めて欲しいんだって」

 藤の返事はそっけない。

「とにかくもう近づかないでくれるかな」

「なによそれ、ひどーい」

 結奈は怒りながらもどこか喜んでいる。 

 もしかして、結奈の方から迫っているとか? 藤とは同級生だから、もともと知り合いなのかもしれない。そして指導教授の娘さんということで、より親しくなったとか。

 十歳以上離れている自分より同級生の藤の方が話しやすいことは、考えなくても分かる。

 くそう。そうはさせるか。

 心の中で叫ぶが、具体的な方法は浮かばなかった。


 次の日、種田教授に呼び出された。

 名指しされたことに驚く。研究にしか興味がない人だから、自分の部屋の研究者だと、認識されていないと思っていた。

 そんな種田教授を冷たいと言う学生もいるが、原口は羨ましく思っている。

「何かやったの?」

 原口を呼びに来た久保准教授は、楽しそうに訊いてくる。

「いいえ。わかりません」

 種田教授が誰かを呼びつけるなんてなかったから、興味津々なのだ。

 まあ、結奈ちゃんのことだろう。こういう場合は変にこそこそせずに、親も攻略すればいい。

「失礼します」

 ドアを開けると、まずは本棚がお出迎えしてくれる。それをぐるりと回ると実験机の向こうでパソコン作業をしていた種田教授が振り返った。

 メガネの奥の勾玉型の目がすがめられる。

「ああ、君か」

 その反応を見て、やっぱりこの教授は原口の顔と名前を憶えてなかったんだと確信した。

「昨日……むすめから聞いたのだが……君は交際を申し込んだんだって」

 世間話なぞせずにすぐに本題に入る。

 種田教授は〝むすめ〟と口にするとき肩をすくめた。その様子から、理解出来ない事に直面した人間の戸惑いを感じる。

「はい、真剣におつき合いをしたいと考えています」

 誠実に見せなくてはいけない。姿勢を正してまっすぐに教授を見る。窓の外が明るくて、種田教授の顔に深い陰影が刻まれている。この人も娘を心配する普通の父親なんだ。

「君は一体どこで、娘と知り合ったんだい?」

 結奈は出会いに関して、詳しく話していないらしい。

「学食でたまたま隣り合ったんです。可愛い女の子だと思ったので声を掛け、連絡先を交換しました。それで何度かラインのやりとりをしているうちに、彼女が種田教授の娘さんだと知りました」

 あらかじめ考えてあった作り話だ。

「たまたまねえ……」

 初めから下心があったことを見透かされている気もするが、知らぬ振りをする。

「それで私の娘と知って、どうするつもりだったんだい」

「はい、困惑しましたが、交際の妨げにならないと思いました。むしろお父さんが研究者だなんて私には理想的な環境です。是非おつき合いをしたいと申し出ました」

 事実を前後して話すのは、論文発表の手口だ。

「だけど君は三十二歳なんだろう」

 年齢差について言及されることは想定済みだ。普段から質疑応答の予備対策はぬかりないる。

「しかし、教授と奥様は十歳離れていると聞いております」

「うむむむっ」

 種田教授はあまり弁が立つ方じゃない。論文発表で意地悪な質問をされて回答が出来ず、立ち尽くしてしまった場面を何度か目撃している。流石に教授になってそういう恥ずかしいことは無くなったようだが、顔を赤くして小さくなっていた頃の種田教授を知っている原口としては、つくづく教授になるのに必要なのはコネだと思った。

「まあ、君の話は大体わかったが、私は娘が、うちの学生とつき合うことを望まない」

 顔をぐっとしかめた種田教授の言葉に、嘘はなさそうだ。

「どうしてですか?」

 研究者の辛さを分かってくれると思ったのに。

「……それは……どうしてもだ」

 ただの親ばかだろうか。娘の彼氏はことごとく嫌うとか。

「私の話は以上だ」

 種田教授の視線がパソコンに戻って、原口は教授室を辞した。

 研究室に戻ると梅原が寄って来た。実習の前に鞄を置きに来たのか藤もいて、こちらを気にしている。

「どうでした?」

 原口の顔を見て、ぎょっとしたように梅原は目を見開いた。

「いいことありました?」

 自分が笑っていることは自覚している。それもニヤニヤ企むように笑っている。

 もしかすると、結奈ちゃんの心に火が点いたかもしれない。

 恋愛というやつは、障害があればあるほど盛り上がるのだ。

「ところで、藤君は彼女いるの?」

 いきなり聞かれて驚いたのか、藤は「へ?」と、思いっきり間抜け顔をした。

「そんなこと、興味あるんですか?」

 梅原も驚いている。

「そりゃまあ、うちの学生だし」

 本当は結奈との関係を聞きたいが、ストレートの訊くのははばかれる。

「いません。もしかしたら遊び人だって噂が流れているのかもしれませんが、デマです」

 遊び人? 何か藤は別のことを心配しているみたいだ。でも梅原がカラスに石を投げつけていたと話していなかったか。色々な噂がある奴だ。

「原口さんはどうなんです?」

 逆に藤が聞いていきた。

「彼女がいるかって?」

 即答できないのが心苦しい。

「まあ、それはおいおいってことで」

 言葉を濁すと、藤は何か言いたそうにこちらを見た。

 こいつもしかして、俺が結奈ちゃんに交際を申し込んだことを知っているのか。

 生協で親しそうにしていたのを目撃している。

 結局何も言わずに研究室を出て行った藤の背中を見送る。

 ああいうくせがない奴がもてるのかもしれない。

 なんだよ。若いだけだろう。

 それに絶対藤は優柔不断だ。名前からしてそうだろう。自己紹介を聞いたとき、苗字と名前の矛盾が気になって仕方がなかった。

 でも三十二歳の非正規の自分に、藤より優れている点があるのだろうか。結奈ちゃんが結婚したいと思うほどの何か。

 一生浮気はしないと誓おうか。育児休暇を取得して、子どもが出来たら子育てを積極的に手伝うとか。

 いや浮気をしないって当然だろう。あえて誓うことじゃない。それにつき合う前から子育てを言い出すなんて気持ちが悪い。

 それじゃあ何がある?

 身長は180センチ、日本人としては高い方だ。食生活が貧しいせいか細身。でもイケメンじゃない。目が大きくて顎が尖っているからカマキリみたいだと言われたことがある。

 それじゃあ、やっぱり研究か。実験して論文をじゃんじゃん書く。

 でもそんな生活を続けていて現在に至っているわけで、その上で種田教授のコネが欲しいと思っている。

 だめだ。堂々巡りになっている。

 結奈に〝元気にしてる?〟とラインを送るとすぐに返信がきた。

〝ごめんなさい。パパが何か言ったんでしょう?〟と、こちらを気遣ってくれていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る