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 五月に入った。

 能勢はお父さんが亡くなったそうで、 ゴールデンウィークをまたいでしばらく休んでいる。

 原口はこの際、家にある換金できそうな物をすべて売り払った。スマホのフリマアプリを使うと一瞬で、母さんのバッグやコーヒーカップにそれなりに値段が付いた。〝きんもくせい〟の引き落とし日に間に合っってほっとする。

 この際、父親の形見の万年筆も売った。思い出は心の支えになるけど、腹は膨れない。スマホのアプリに1万円が振り込まれる。原口はクレジットカードを持っていない。銀行の通帳は残金が二桁になっているから、スマホを見て、心の平静を保った。

 人の価値を貯金の額で測ったことはない。

 ましてや持ち物や服装は、確かな物じゃないと思う。

 でも自分が非正規採用の何者でもないことは事実だ。なんとかこの状態から抜け出したい。

 結奈とは毎日ラインをする仲になっていた。結奈は原口のことを訊きたがったから、出身地や学歴、家庭の事情などをさらりと話した。結奈の方は主にテレビや流行りのスィーツ、自宅のペットの話など、当たり障りのない話しかしてこない。それでも十分に親しくなったと判断して、原口は食事に誘った。

 結奈はあっさり了承し、自分からイタリアンを予約した。


 階段を照らすのは壁に立てられたろうそくのみで、慌てた原口は階段を踏み外しそうになった。この暗さも店の演出だろうか。そういえはカンデラという光度の単位は、ろうそくの明るさからきてたんだっけ。

 目が慣れるのを待って階段を下りると、がっしりとした木のドアを開けた。

 すると昼間のような(実際に昼間だけど)明るい店内が広がった。

「すみません。予約している原口です」

 結奈は先に来て待っていた。薄いピンクのワンピース姿で手を振ってくる。

 ウエーブのかかった茶色い髪は地毛ではないのだろう。以前見かけた時はもう少し黒かったと思う。

「すごい、気づいてくれたんですね」

 指摘すると嬉しそうに微笑んだ。でも原口にはそれに対する感想がない。事実を述べたのみ。似合うとか素敵だとか、髪形で女性を判断したことがない。結奈はパッチリ二重の欧米風の顔立ちをしており、種田教授はのっぺり顔だから、結奈は母親似なんだろう。

「このお店、一度来てみたかったんです。だから今日は嬉しいな」

 テーブルも椅子もカウンターもすべて白木で、ドライフラワーが下がっていたり、黒板にメニューが書かれていたりする。自然に囲まれたカントリー風を人工的に再現している。女性に人気なようだが、原口は少し軽くて苦手だ。見渡すと若いカップルや女性客ばかりで、そのことも原口を落ち着きなくさせる。

 それでも結奈の嬉しそうな顔を見ると、よかったと思った。成功を確信する。感動はそれをもたらしてくれた人物への愛情に代わるのだ。このまま大人の男を演じて、一気に交際へもっていきたい。お金に困っているただの研究者が、これからもしぶとく生き残るにはお金持ちとの結婚、すなわち逆玉しかない。だから種田教授の娘さんと知り合えたことは幸運だ。

 しかしここでどう話を進めていけばいいのか、考え込んでしまう。

 原口は今まで、自分から女性を口説いたことがない。学生時代は優秀だったことで勝手に好感をもたれ、交際に発展した。だが非正規採用で大学にしがみついていると、誰も寄ってこなくなった。

「私は、これ、カプレーゼとハーフサイズのマルゲリータ、メインは牛肉のタリアータでワインは赤でおすすめを。それからデザートはアフォガードがいいな」

 はじめて来た割に、結奈は迷いなく注文している。

 原口は頭の中で合計金額を素早く計算した。

「ああ、僕はお昼のおすすめで。それからワインはなしにして。たね……いや結奈ちゃんも午後から講義があるんだから、お酒はだめだよ」 

 種田さんと呼びかけて、種田教授を思い出すから改めた。

「えー、私、お酒強いから大丈夫なのに」

 結奈は拗ねながらも、渋々従った。

 料金を押さえられたことにほっとする。

 食事は和やかに進んだ。たた「注文し過ぎたみたい」とメインの肉料理がきたところで結奈が胸の辺りを押さえ、ナイフを置いてしまったのを見て、嫌な気持ちになった。付け合わせのトマトやバジルがしょんぼりしている。原口は既に白身魚のソテーを完食していた。身を乗り出して結奈の残した肉を食べてあげるほど親しくない。相手が心美ならできるが、あいつが残すなんてありえない。

 でも……あの肉料理一皿は、自分の時給のどれぐらいに当たるんだろう。

 ああ、肉、肉、肉。腹は膨れているのに唾が湧いてくる。

 そういえば肉の塊を最後に食べたのはいつだっただろう。近頃は、麻婆豆腐やコロッケに申し訳程度に入っているひき肉にしかお目にかかっていない。

「じゃあ、俺が食べてあげようか」

 そんな言葉が喉から出そうになる。でもその一言で、嫌われたら元も子もない。ここは自然に、食品ロスの問題に取り組むように話したらいいんだ。

 論文発表の質疑応答並みに緊張して、口を開きかけたら、結奈がウエイターを呼んだ。

「これ、下げてください」

 原口ににっこりと笑いかける。

「太っちゃうもん」

 頭からずずずっと血の気が引いていく音を聞いた気がした。

「もったいない」と叫びそうになる。

 いやいや、がまん、がまん。両手を強く握りしめる。

 これは投資だ。ここでケチなことを言って、結奈の機嫌を損ねてはいけない。

 自分を律して、ウエイターが持って行く肉の皿を、目で追わないようにする。

 結奈の注文したデザートのアフォガードは、バニラアイスにエスプレッソをかけるパフォーマンスを、客席でしてくれた。

 結奈がそれを動画に取り終えたので言った。

「アフォガードってイタリア語で溺れるっていう意味なんだ」

 湯気を立てて溶けていくアイスをすくって食べている結奈は、原口のうんちくなど聞いていない。仕方なく原口は、だまって結奈を見守る。

「これが一番おいしい」

 目をとろんと細くしてアイスを食べる結奈は本当に満足しているようで、原口はコース料理のバニラアイスを食べながら、これでよかったのだと自分を励ました。

「ところでさあ結奈ちゃん。僕とつき合ってもらえませんか」

 やっと今日の本題に入った。

「ええ? 私たち会うの二回目ですよね」

 結奈は驚くよりも、不思議がっている。

 そんな様子を見て原口の方が不思議に思う。

 つき合っていない相手と、こんなに軽々しく食事をするのか。父親の学生だから親近感があるとか。

「いやでも僕は、君のお父さんの研究室にいるわけで、距離的にはすごく近い。それに、お父さんからしたら安心できる相手だと思う」

「パパが?」

 こんなところで父親を出すセンスはいただけないが、結奈は目を輝かせた。

「そっか。パパがね。でもいきなり過ぎてよくわからないや。少し考えてもいいですか」

 結奈としては当然の返事かもしれないが、原口は追い詰められている。早く返事が欲しい。

「そうだね。またラインするよ」

「はい、次はフランス料理へ行きたいな」

「う、うん」

 顔が引きつる。フランス料理ってものすごく高いんじゃなかったか。

 レジで立ち止まると結奈ちゃんは財布を出して、自分の分を払おうとした。

「いや、いいから」

 投資、投資。

 スマホで決算を済ませると、なんだか体が軽くなった気がした。自分が丸裸になったような心細さを覚える。

「じゃあ、次は私が払いますね」

 フランス料理は結奈ちゃん持ちということか。料理の値段を考えず、無邪気に言える結奈ちゃんが羨ましい。

 崖の縁にずりずりと引きずられていく自分が目に浮かぶ。一か月後の〝キンモクセイ〟の支払いを切り抜けられるのか。

 原口は肩を落として大学に戻った。とにかくまめに結奈ちゃんと連絡を取る。次のフランス料理が勝負だ。 

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