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種田教授にもバイトはないか聞くため、教授室をノックしようとすると、ドアが内側から開いた。

 中から出て来たのは若草色のコートを着た女子だった。ベビーイエローのスカートがまぶしくて、絶対工学部女子ではないと思った。

「あ、すみません」

 その女子は原口に気づくと挨拶をして行こうとした。

 うちの大学の学生だろうか。

「君は?」

 追いかけて行って声を掛けたのは、野生の勘だ。

「教授に何か質問でもあるの?」

 一番の可能性は学生の質問だった。ただ女子学生が一人で質問に来ることはあまりない。

「えっ、パパに?」

 女子はちょっと驚いた顔をして、吹き出した。

 パパ?

 女子の言葉が頭の中で響く。

「ああ、すみません。私はここの三年で、種田の娘です」

 娘は軽くウエーブのかかった髪を耳にかけながら、きれいにお辞儀をした。

「今日は父に話があって来たんです。あなたは父のところの学生さん……ではないですね。でも父の関係者ですか?」

「ああ、いや。歳を食ってますが学生です。研究生と言った方がいいのかな」

 卑屈に言ったが、娘は気づいてない。

「わあ、すごい! 大学で研究をされているんですね」

 娘が胸の前で両手を合わせて、拝むようなポーズを取る。

 流石、種田教授のお嬢さんだ。研究生に対して偏見を持ってない。

 種田教授は一人静かに自分の研究にまい進するタイプだ。そんな父親を身近に見て育った彼女は、研究者に対して良い印象を持っている。

「私、結奈と言います。よかったらラインを交換してもらえませんか。父の大学での様子を教えてもらえたら嬉しいです」

 娘、結奈の方から言われて、頬が緩んだ。種田教授のことをずっと羨ましいと思っていた。自分だって、お金持ちのお嬢さんと結婚したい。

「はい、喜んで。今度食事でもしましょう」

 原口が言うと一瞬結奈の動きが止まった。

 焦り過ぎかと後悔しかけたとき、結奈の顔がぱっと明るくなった。

「連絡してくださいね」

 やった。

 うまくいけば結奈とつき合うことができる。種田教授の家はお金持ちだから、結奈と結婚でもできたら一生お金に困らない。

 種田教授にアルバイトを斡旋してもらうことなどどうでもよくなっていた。

 大学からの帰り道、さっそく結奈にラインを送った。内容は、種田教授はお酒を飲んだら、研究に対する姿勢をエンドレスで話すとか、その内容はとにかく前に突き進めという根性論だが、自分は好きだとか、教授の好きな女優は宮崎美子で、ひそかに奥さんに似ているのだろうと学生は噂しているとか、くだらないものばかりだ。

 結奈がすぐに返信してくれたので、そのたびに原口は自転車を止めて応じた。

 〝ココミ〟の前を通ると、まだ明かりが点いていた。そういえば今朝はパンを食べていない。思い出して店に寄ることにした。

「ああ、すみません」

 ところがドアを開けると、知らないパートの女性がトレイを片付けていた。朝早い心美は、夕方業務に携わっていないようだ。

「今日はもう、売り切れたんですよ」

 パートの女性に言われて見ると、棚の上は何も残っていなかった。

「ああ、そうですか」

 パンが食べられないのは残念だが、店にしたらいいことだ。明日は売れ残りにはありつけないのかと、がっかりしながら店を後にした。


 次の日の朝、〝ココミ〟に立ち寄った。残り物はなくてもあんパンは食べたい。それにここで行かないと、今までが残り物目当てであったと認めてしまう。

「いらっしゃいませ」

 調理服姿の心美はいつも通り、顔に粉を付けている。

「昨日、おばさんどうだった?」

 原口が水曜日に母親の施設へ行くことを知っているので、木曜日の朝には必ず聞かれる。

「うん、目を開けて寝てた」

 原口を本当のことをできるだけ明るく言うと、心美はぐっと両手を握りしめた。つぶれたクリームパンみたいな手を見たら、悪いことを言ってしまった気持ちになった。つき合いが長いから、心美が悲しでいるとわかる。

 早々に店を出ようとすると、心美はレジの下から残り物のパンが入った袋を出してきた。ピザパンやチョココロネが透けて見える。

「心美?」

 昨日、全部売り切れてなかったか。それなのにどうして残り物があるんだろう。

 考えてみると、残り物のパンは毎日違っていた。同じパンが続いたことがない。それは心美が事前に取り分けていたからじゃないか。

 じっと心美の目を見ると、心美はぱちくりと瞬きをした。

 心美は成績が良くないし動きが鈍く、よくいじめられたから、助けてやった。パンだって売れ残りを捨てるのが忍びないから、食べてやっていたのだ。

 でも本当は逆で、心美に助けられていのか。

 パートを雇うほどの余裕があるのだから、それなりに商売は上手くいっているはずだ。現に、一日経ったパンでもおいしく食べられる。

 胸の奥から溢れてきたのは恥ずかしさだった。恵んでくれていたのか。

「昨日、帰りに寄ったんだ」

 冷静になろうとしたら、声が氷点下になった。

「そしたら一つも売れ残ってなかった」

 心美がはっと息を飲む。

 その表情がいじめっ子に泣かされていた子供の頃と変わらなくて、胸の奥がぎゅっと痛くなる。

「もう、来ないから」

 それだけを言うのがやっとだった。

 喉の奥がからからに乾いている。 

 店を飛び出すと、調理服姿の心美が追いかけて来た。

「千紘兄ちゃん」

 トングに掴んだあんパンを、こちらに差し出している。

 原口は自転車を戻すと手であんパンを受け取った。口に咥えて自転車を漕ぐ。

 無心で漕いで大学に着いて、パン代を払っていないことに気がついた。


 毎日パンを食べていた原口の体は、ほぼパンでできている。そのパンが食べられなくなったのは辛い。大切なエネルギーが補給されなくなったみたいで、体に力が入らない。

 それではと、大学内の生協へ行って大手メーカーのパンを買ってみたが、普遍的なあんパンであるにもかかわらず、原口の体は〝ココミ〟のパンとは違うと訴えた。

 腹が立つ。

 培養用の直径3センチの試験管を見ただけで、心美の不器用そうな指を思い出してしまい、また腹が立つ。

 だけど一番腹が立つのは、恵んでもらっていると気づかずに、助けてやっているつもりでいたことだ。

 こうなったら米だ。日本人は米だろう。心機一転で米生活を送ることにした。

 特価で買った米を炊いて、朝と昼にあてることにする。だけどお米だけでは寂しくなり、ついお惣菜を買ってしまった。すると、あっという間に家計を圧迫し始める。今まで決めていた一日の食費300円の制限をすぐに超えてしまった。

 いやそれに……。

 心美のパンを体が求めていた。

 特にあんパン。手の平にのる大きさ。こんがり強めの焼き加減。ずっしり重く、一口噛むと餡の甘味が口の中に広がる。中は絶対粒あんだ。定番だけど、その定番を作るのが難しい。

 以前閉店間際に行って、パートの女性がいたことを思い出した。あの時間なら心美にばれないはずだ。

 我慢できなくなって六日目。午後七時だとパンが無くなるかもしれないから、六時半に店に行ってみた。

 店内を見回すと、棚の中央に寄せられたトレイに150円のふわふわショコラと180円のトウモロコシを生地に練り込んだ大きめのパンが残っていた。あんパンのないことにはがっかりしたが、じっくり二つを見比べて、ふわふわショコラをトングで掴んだ。パン生地からはみ出しているチョコレートを落とさないように細心の注意を払う。

「150円になります」

 速やかに清算が終わり店を出ようとすると「キノさん。今日はもう上がってください」と、店の奥から心美が顔を出した。

 カバンで顔を隠した原口を、心美はすぐに見つけた。

「千紘兄ちゃん?」

「よ、よう」

 二度と来ないと言ったくせに、一週間もせずに来てしまった自分が恥ずかしい。

「来てくれたんだ」

 心美の声が弾んでいるように聞こえるのは気のせいか。

「いや、ほらお金」

 でもこんな時のために用意してあった言い訳がある。ポケットの小銭入れから500円玉を指でつまんで出すした。前回のあんパンの料金を、払ってなかったのだ。

 すると心美の太い眉がカタリと下がった。

「そんなのいいのに」

「いや、お金のことはきっちりしとかないとな」

 本当は踏み倒すつもりだったのに、どの口が言う。

「ごめん、キノさん。レジ代わってくれる」

 パートの女性が下がると、心美はレジに立って500円玉を受け取った。

「ごめんね、千紘兄ちゃん……毎朝パンを渡してたのは、私が作ったパンを食べて欲しかったからで……私馬鹿だからそれがうまく言えないで、あんな風にしてしまいました……ごめんなさい」

 言葉のたどたどしさに比べて、レジを扱う手つきは慣れている。

 今の心美をいじめる奴なんていないだろう。それほどまでに心美は大人で、立派なベーカリーの経営者だ。謝るのはこっちの方だ。毎朝パンをもらって助かっていなんだ。でもプライドが邪魔をして言えない。

「また来るよ」

 これは優しく言えた。

 ぱっと顔を上げ、すがるような目をした心美を見て、もう来れないと思った。  

 店を出ると自転車のサドルに黒いネコが乗っていた。

 なんでこんなところにネコが?

 不思議に思いながらネコを手で払った。サドルが温かい。

 

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