2
四月に入り、学内がそわそわし始めた。通いの業者が来て挨拶をしたので、原口も年度が替わったのだと実感する。大学に入学した当初は期待に胸を膨らませていたと思うが、今となっては思い出すことさえない。
水曜日になった。
朝起きると、冷凍してあるご飯を温めてお茶漬けにした。残りをお昼用のおにぎりにする。
広い川に沿って自転車で下ると、白壁に茶色い屋根の、マンションのような建物が見てきた。マンションと違うのは入り口に大きく「有料老人ホーム きんもくせい」と書かれている点だろうか。
受付で名前を記入するのを、事務員が無表情で見ている。その横にパジャマ姿の老女が、目を輝かせて立っていた。
「ああ、タカシ、やっと迎えに来てくれた」
髪がぼさぼさの老女が、先週と同じことを言う。
この人はずっとここに立っているのか?。
「すみません、俺はタカシではありません」
原口が言うと、老女の目から輝きが消えた。緩んだゴムのように体から力が抜け、視線を改めて出入口へ向けている。
悪いことをした気がして、原口は老女から目を逸らした。自分の母親のいる三階を目指す。
自宅で躓いて骨折した母親は、急激に体が衰えて寝たきりになった。母親は一人息子である原口に下の世話をさせるのを拒み、原口自身も大学に通いながらの介護は無理だと思った。ケアマネージャーさんに相談して、この有料老人ホームを紹介してもらった。本当は特別養護老人ホームに入りたかった。そこなら入居金なしで月額8万円あれば足りたのだ。母親の年金でぎりぎり何とかなった。しかし特別養老老人ホームは人気が高く、原口が希望した時点で200人待ちだった。対する有料老人ホームはすぐに入居できた。入居金20万円に、費用月々20万円。単純に母親の年金8万円から引くと毎月12万円足らない。
現在の原口の収入は手取りで13万円。
だけど、水道光熱費や通信費で2万円、食費は1万。
どう頑張っても毎月2万円の赤字になる。
母親が息子の結婚費用にと貯めてくれていた貯金を今は当てているが、それも今月で底をつく。
どうするべきだろう。やっぱり実家を売るしかないのか。二十三坪の古い家だが、東京だからそれなりの値が付くんじゃないか。いやあの家は、両親にとっては何物にも代えがたい大切な場所で、思い出が詰まっている。母親はまた歩けるようになって家に戻ることを夢見ているのだ。そんなことはできない。
毎度同じことに悩みながら廊下を歩いていると、大きな叫び声がして、原口は立ち止まった。
しばらく助けを求めるような「わー」とも「ぎゃー」ともつかない声があたりに響き、ぶつりと止んだ。廊下が急に静かになる。事務所の方を見ても、その声に反応して誰かが駆けつける様子はない。窓の外は少し古いタイプの住宅街だ。サザエさんやドラえもんのような一階に二階を乗せた昭和の二階建てが見える。
気を取り直して母親の部屋に入ると、やけに静かだった。
眠っているのかと簡易キッチンの前を通ると、母親は目は開いたままベッドに伏していた。
「お袋、おはよう」
出来るだけ明るい声を出したが反応はない。個室が人気と聞いていた施設だが、社交的で寂しがり屋であった母親は、ここに入ってから表情が乏しくなった。精神的な疾患だそうだが、うつ病や認知症というのは人によって出る症状が違うらしい。
「イチゴ大福を買って来たよ。母さん好きだっただろう」
和菓子と果物が好きで、両方が合わさったイチゴ大福はお気に入りだった。昨日スーパーで買っておいたのだ。
「そうだ。お茶をいれて来るよ」
〝きんもくせい〟には談話室があり、そこでは無料のお茶が提供されている。
お茶を汲んで戻って来ても、母親は天井を見ているままだった。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
頬骨が浮き上がり目が落ちくぼんでいる。職員の話では食事もあまり取れていないそうだ。
「辛いなら無理しなくていいけど、一口だけ食べてみないか」
せっかく買って来たのにと責めたいところを我慢する。早くに夫を亡くし、自慢の息子はいつまでたっても非正規。追い打ちをかけるように自分は怪我をして、こんな施設に放り込まれてしまったのだ。精神的に参って当然だ。
「母ちゃん、ごめん」
肩をすぼめて小さくなる。はたしてこの言葉は、届いているんだろうか。
おまけに今月の施設の使用料が払えるか分からない。すべてが破綻する時を、じりじり待っている状態だ。
「また来週来るからね」
静かな廊下を歩きながら受付まで行くと、さっきの老女はもういなかった。
退出の時間を記入して外に出ると、温かい風が吹いた。アキニレの葉がガサガサ揺れている。
口を開けて、深呼吸をした。
母親を大切にしたい。でも自分にはお金がない。人一倍努力してきたつもりなのに、なんでこんなに息苦しいんだ。
大学へ行くと能勢さんが奥さんの作った弁当を、久保准教授がコンビニ弁当をそれぞれの机に向かって食べていた。学生はおらず、二人に会話はない。昼は大体こんな感じだ。
「能勢さん。なにかバイトありませんか?」
持って来たおにぎりを食べながら能勢にすり寄った。先輩の能勢は原口よりずっと早く正規採用になった。現在は結婚して一児の父である。
「今ですか? ちょっと思いつかないな」
卒論修論の季節だと、お遣いだけで小銭を稼げたが、今は新学期が始まったところで、雑用さえない。
「久保さんに聞いてみたらどうです?」
「いや、あの人は……」
以前訊ねたら、朝食づくりや掃除や子守と、家事全般を頼まれた。残念ながらそちらのスキルは持ち合わせていなかったので、お断りした経緯がある。
「原口君って、いつもお金に困ってるよね」
久保がこちらを見た。日本人形のようなまっすぐな髪に、ちらほら白髪が混ざっている。
「はい、まあ」
久保は元々うちの学生ではない。女性の社会進出が謳われるようになったのに、うちの大学職員の女性率が低すぎるからと、女子大の講師をしていた久保を呼び寄せたのだ。お陰で能勢は助手止まり。原口の正規採用は見送られたままである。
「私思うんだけど、大学にしがみつくのを止めたらどうなの」
久保のストレートな疑問は、原口の心に刺さった。まさにそれは、日々原口を悩ませている問題だった。このまま大学を続けて、正規採用になれるのか。
「べつにしがみついているわけじゃないですけど」
見栄を張って言ってみる。
深く望んでいるわけでもないのに准教授になった久保からは、大学教授になりたいという野心も意気込みも感じない。多分年齢は能勢と同じくらいじゃないか。
「ならどうして毎月金欠で、割の悪いバイトを探してるのかな」
「割が悪いとことはないと思いますけど……」
能勢の手伝いをして得られる報酬は、時給1000円ほどだが、原口の得意分野であるから苦にはならない。
「そうかな。今どきコンビニバイトでも深夜なら時給1500円はいくと思うよ」
「久保さん。原口君にコンビニは無理ですよ」
能勢が割って入ってくれる。
「なぜ? 学生とか主婦に混ざるのか恥ずかしいとか」
「当たり前じゃないですか。俺たちって、周りは遊んでいるのにずっと我慢して勉強してきた口なんですよ。それが学生に混じってコンビのバイトするなんて、報われないですよ」
「それはそうね」
あっさり久保は引きさがったが、原口の中では能勢の放った〝報われない〟という言葉がぐるぐる回っている。世の中は不公平だと知っているけど、報われたい。いつの間にか親の望んだ大学の正規採用が、自分の目標になっていた。
そんな原口はこの日、種田教授の娘さんと出会った。これは原口の今後を大きく左右することになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます