真実の口 原口千紘 1


  店の前で、原口千紘は自転車を停めた。

『準備中』の札を気にせずに中に入ると「いらっしゃいませ」と、店の奥からいつもの声がする。

 朝七時。陳列棚にはまだあんパンやクリームパンといった定番のパンしか置かれていない。あと一時間もすればおしゃれなディニッシュ系のパンやサンドイッチなどの調理パン、人気の食パンなどが並ぶことになり、この時間、ベーカリー〝ココミ〟は一番忙しい。

 130円のあんパンをトレーにのせてレジへ持って行くと、奥から慌てて心美が出て来た。鼻の先に小麦粉を付けている。

「いつもありがとうございます」

 Mサイズのコックコートを着ているのか、肩も胸もぱつんぱつんで、トングを持つ指はむちむち。幼い頃から体格がよかった心美だが、ベーカリーを始めてからさらに大きくなったのではないか。

「開店前に買わせてもらっているんだから、こっちの方がありがとうだし」

「そんなことないよ。千紘兄ちゃんには昔からお世話になってるもん」

 心美は三十歳にもなるのに、小学生の頃のちょっとした出来事を覚えていて、いまだに感謝してくれる。 

 心美はあんパンを袋に入れると、レジの下からごそごそとビニール袋を取り出した。

「これ、今日もいい? 売れ残っちゃって」

 遠慮気味に言うが、原口の本当の目的はその袋だった。それでも二歳上というプライドがあるから、「ああ」と鷹揚に返す。

 もらった袋をさっと確認し、クリームパンやチョコレートをまぶしたおしゃれなパンの中に、ソーセージ入りのパンを見つけた。ガッツポーズが出そうになる。パン生地をソーセージに巻いて焼いたパンは、原口のお気に入りだ。当然、〝ココミ〟でも人気があり、売れ残ることはまずない。

「昨日のパンになりますので、今日の午前中にはお召し上がりください」

 いつもの口上に頷きながら店を出る。

 朝からちょっとラッキー……か? 

 サクラの蕾が膨らんだ土手を自転車で走りながら、ソーセージ一本で機嫌がよくなる自分が情けなくなる。


 幼い頃から成績が良かった。原口は両親ともに四十歳を過ぎてから生まれた一人息子で、ひどく可愛がられた。「末は博士化大臣か」そんな古い言葉を、現在施設に入っている母親は(父親は早々に亡くなった)時々口にする。両親の期待に応えるべく努力して現在の大学に入学した。文系が苦手だった原口の夢は博士になること。

 しかし世間はそんなに甘くなかった。

 就職をせずに修士号と博士号を取得したものの、原口の所属する酵素機能研究室は、教授と准教授と助手が揃っていて、ポストに空きがない。バクテリアのDNAを突然変異させて必要な酵素を作らせる研究は脚光を浴びているが、企業は結果だけを欲しがる。三十二歳にもなるのに大学に残っている末端の研究者なんてお声はかからない。

 来年度も週二コマの実験を担当する非正規職員生活が続くのだろう。


 大学の東側にある小さな門から入った。原口は医療に役立つバイオ酵素を分泌するバクテリアの培養を行っており、培養棟は大学に東の端、Wi-Fiの繋がらない辺鄙な場所にある。

 プレハブ倉庫のような建物の鍵を開けて靴を脱いだ。

 手前の部屋には、記録用の事務机や試薬を保管している冷蔵庫、無菌作業を行うクリーンベンチや実験に使う液体窒素などがある。

 原口は鞄を机に置くと二重扉を開けて、奥の培養室に入った。

 そこには温度や照度を調節した小型冷蔵庫のようなインキュベーターがいくつも置かれており、その一つずつに異変がないかチェックする。

 本来これは助手である能勢の仕事であるのに、のらりくらりとかわされた。准教授の久保は子どもを三人育てる母親で、現実主義者。現在実験をしていない自分は培養室を使っていないから、温度管理の義務などないとあっさり拒否。まさか種田教授に頼むわけにもいかず、結局非正規の原口の仕事になっている。

 原口は一番端のインキュベーターを開け、寒天培地に植えられたバクテリアを観察し、雑菌の入っているものを除いた。

 植え替えのとき混ざったのだろう。後で分離してやらないといけない。

 そのほかは異常がなく、管理表のチェック欄に自分の名前を記して汗を拭いた。

培養室は温度管理されておらず、インキュベーターがあるせいで室温が高い。冬はいいのだが、夏は熱帯と化す。

 これで朝の仕事が一つ終わった。

 農学部が管理している果樹園を横切ると、工学部棟の三階に向かった。

 時計は八時十分を指している。

 春休みの朝ということもあり、大部屋には誰もいなかった。うちの講座は種田教授だけ一人部屋で、残りは大部屋に押し込まれている。ここを使うのは、四月から入ってくる三年生が一人と、この春四年生になる学生が一人、修士と助手が一人ずつに、准教授と自分で六人。全員そろえばかなり窮屈になる。

 だから休みの間に部屋を占領して、論文を書くつもりだった。

 まず腹ごしらえをしなくては。

 お湯を沸かしてインスタントの珈琲を入れると〝ココミ〟のパンを味わいながら食べた。一日のうちで一番心休まる時間だ。

 心美とは家が近く、親同士の仲が良かった。心美の親に泣きつかれ、昔はよく勉強を教えたものだ。そのころは何度教えても成績が上がらないことを心配したが、心美は高校を卒業すると同時に調理師学校へ進み、有名なベーカリーで修業した後、五年前に地元に戻ってベーカリー〝ココミ〟をオープンした。現在はアルバイトやパートも雇い、心美の両親も手伝って、ベーカリー〝ココミ〟を立派に経営している。勉強を教えていた名残で今でも心美は原口を慕ってくれるが、毎朝早起きをしてパンを焼く心美は堅実で、原口よりはるかに多くの人の役に立っている。

 対する原口は、長く大学にいる割には研究成果が得られず、収入は非正規としての一コマ1万円が週二コマと、塾のバイトの5万円。持ち家でなければやっていけてない。

 そのことを心美も知っているのか、〝ココミ〟がオープンした当日に、腐れ縁だからと駆けつけると、焼き立てのパンをいくつもおまけしてくれた。だけど原口はそれを拒否した。両親と心美の三人で経営する(のちにパートを雇った)小さな町のパン屋さんなんだから、知り合いにパンを配っていては経営が成り立たなくなる。

 それから心美は、前日に売れ残ったパンをくれるようになった。どうせ捨てるからと言われると断る理由がない。助けてやっている心境だ。結局原口は、用事がある水曜日と〝ココミ〟の定休日の日曜日以外は、店に寄ることにしている。


「あーいいな。ソーセージのパンだ」

 ソーセージに突き刺さった割り箸を手にパソコン画面を見ていると、梅原がやって来た。梅原は四月から修士二年になる。

「やらないぞ。このパンは二週間ぶりなんだからな」

「もう食べてるじゃないですか。いいですよ」

 残りのパンに目を走らせた梅原に、机の上の豚の貯金箱を示す。

「一つ100円だ」

「元はただですよね。捨てる物でしょう」

「なら食うな」

 そっけなく言ってやると、梅原は諦めたようにポケットから百円玉を出して、貯金箱に入れた。小気味よく、硬貨のぶつかる音がする。梅原は、一番単価が高そうなチョコレートのパンを手にした。

「俺、原口さんを見てたら、絶対に大学に残りたくないって思います」

 いつの間にか四年の向井も出て来て一緒にパンを食べている。当然100円は回収した。

「べつにいいんじゃないか。人それぞれで」

 もらったパンを百円で売っている自分の現状を考えると、裕福でなければ大学に残れないと思う。種田教授なんて奥さんの父親は大きな製薬会社の役員だし、久保准教授は旦那さんが堅実なサラリーマン、能勢さんも父親が市会議員らしい。

「そんなに働いて、論文書いて、手取り週2万っておかしいですよ。原口さんは時給計算したことあるんですか?」

 向井に言われて首を振る。昔は何度もやったけど、バカバカしくなってしなくなった。

「そういえば、来年度から来る藤君っているだろう。俺、嫌な場面見ちゃったんだ」

 話はとりとめなく変わる。梅原が言い出した。原口は論文を書きながら、何となく聞いている。

「昼休みに裏の果樹園を通りかかったら、藤が一人で焼きそばパン食べてたんだ」

 果樹園はところどころにベンチがあって、自由に学生がくつろいでいる。昼休みに弁当を食べる学生をたまに見かけることがあるから、おかしいことじゃない。ただ焼きそばパンは〝ココミ〟にはないから生協ででも買ったんだろう。

「そこに、丁度カラスが飛んできた。くちばしになんか咥えてて、藤君の近くにあったリンゴの木に止まって休んだ」

 収穫の時期になると、果樹は鳥の被害に遭う。農学部の学生がネットを張っているのをよく見かけたが、まだ時期ではない。

「そしたら藤君、石拾ってカラスめがけて投げたんだ。カラスは咥えていた物を落として逃げた。面白がってやったみたいで、なんか嫌な感じがしてさあ」

 それだけの情報では藤という学生を判断できないが、確かに大人げない。

「べつにいいんじゃないか。人それぞれで」

 原口は気のない返事をして、雑菌の入ったバクテリアを分離するために立ち上がった。

「それさっきも言ってましたよ」

 向井も立ち上がった。多分バイトへ行くたのだろう。うちの学生は、ここをたまり場にしている。

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