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 目を開けたら翌日の昼を過ぎていた。

 十二時間以上眠ったことになる。

 慌ててバイトに行った。

 昨日いきなり休んだから迷惑をかけている。空き時間に沙良に電話をすると、今度はあっさりと通じた。まだ入院しているけど体に異常はなく、ずっと取り調べを受けていると言う。

 眠っていたから恐ろしい思いはしなかったんだと話す沙良の声は明るい。

 沙良から会いたいと言われて、秋人に断る理由はない。別れ話は中途半端で終わっている。沙良が嫌いになったわけじゃない。むしろ今回沙良が誘拐されたことで、どれほど自分にとって沙良が大切な存在か再確認した。

 次の日、バイトが早く終わったので、面会へ行った。肉体労働のバイトは休んでいる。


 沙良の入院しているのは都心にある大きな病院だった。事件の後、すぐにマンションの近くの病院に搬送されたものの、事情聴衆がしやすいように別の病院に移ったそうだ。個室をあてがわれていて、スマホは使い放題だとか。秋人は途中でコンビニに寄り、沙良が好きなエクレアとプリンを買って病院を訪れた。

 見舞いが規制されているんじゃないかと心配したが、ナースステーションで名前を告げると、あっさり病室を教えてもらえた。

 実家から沙良の母親が出て来ていて、長々とお礼を言われた。このままでは両手を合わせて拝まれるんじゃないかと心配し始めたころ、沙良が母親に買い物を頼んだ。


 個室はベッドと洗面所のシンプルな造りになっていた。枕元に医療用のモニターがなければ、ビジネスホテルみたいなんだろう。

 母親が使っていた椅子に座らせてもらう。

「調子はどう?」 

 髪を後ろで束ね、薄くリップだけぬった沙良は、化粧をしていないのかいつもより目が小さく見えた。全体的に少し幼く見えるけど、自然な感じがする。

「ありがとう。明日には退院出来るみたい」

 体調より、事情聴衆がひと段落したと言っている。

「私は何も覚えてないから、犯人の方から話を聞くことにしたんだろうね」

 他人事みたいに話す。

「ねえ、私のこと、すごく捜してくれたんだって」

「うん」

 こうしてまた普通に会話することができてうれしい。

「秋人って優しいよね。困っている人がいたらほっとけない」

 それは違う。さらわれたのが見ず知らずの人間だったら、あんなに必死にならなかった。

「私、本当に危なかったって刑事さんに聞かされたんだ。犯人は夜道を歩いている若い女をさらって、殺してたんだって。だから、あのままなら私も殺されていた」

 沙良は何かに敬意を示すみたいに、背中を伸ばした。

「私がさらわれたのを目撃してずっと捜してくれたんでしょう。それで私は助かった。だから感謝してます。ありがとう」

 軽く瞬きをした沙良の顔に、ゆっくりと悲しみが広がっていく。

「でもね……公園でネコが殺されているって話を秋人が知っていたのは、殺されたネコたちがいたからだよね。

 新聞配達員がさらわれた女性の名刺を拾ったっていうのは、その女性の名刺を犯人がポケットに忍ばせたから。

 エレベーター前に付いていた血痕は犯人のものだったんだって。被害者に抵抗された際犯人は傷ついて、自宅に戻って手当てしたんだって。

 それにね、犯人は本当は自宅にさらった人間を連れて帰ったりはしてなかったんだって。犯行現場は別にあった。でもあの日はたまたま事故があって道路が封鎖されていた。いつも使っている現場へ行けなかったから、仕方なく私を自宅に連れて帰ったんだって」

 犯人のシャツに、星のシールが付着していたことも大きい。あれは沙良の抵抗の証だ。

「秋人が私を見つけられたのは、多くの偶然と被害に遭った女性たちの抵抗があったからだよね」

 ちょっと言葉を切ると、沙良はまっすぐにこちらを見た。

「そんなすごいことが重なって、助かったのが私でよかったのかなって、不安になっちゃった。私なんて、秋人のストーカーしてるのにって。そしたらね、こんな自分じゃだめだって思った」

 はっきりと言った沙良は、つき合っていた時のただただ可愛いかった女の子でも、うちの前で会ったときの大人の女でもなく、頼もしい自立した存在になっていた。

「だから、私と別れてください」

 沙良が頭を下げた。

 自分の手の届かない場所へ、沙良がいってしまったことを悟った。

「はい、よろしくお願いします」

 こちらも頭を下げる。

 俺がぐずぐずしている間に、沙良は成長していたんだ。

 顔を上げると、沙良の目から大粒の涙がこぼれた。はっとしたように沙良は手のひらで涙をすくい、それから口を大きく開けて泣き出した。

 胸の奥から愛おしさがこみ上げた。沙良を慰めたい。傍にいたい。

 でも俺がそれをしてはいけないんだ。

 秋人は両手を強く握りしめた。

 別れるってそういうことで、沙良はそれをちゃんとわかっていて、別れを告げたんだ。


 エクレアとプリンを渡し損ねた気がついたのは、病院を出てからだった。風に涼しさを感じ、いつの間にか夏の盛りが過ぎたことを知る。

 落ち込みながら帰ると、ヨシムネを膝に乗せた波子さんが、テレビのニュースを見ていた。連続殺人犯が捕まったことが報道されている。犯人は少しづつ供述を始めているらしい。

「本当に色々とありがとうございました」

 眠気とバイトで、二人にはろくにお礼を言っていなかった。

「そんな改まってお礼を言っていただかなくても大丈夫ですよ」

 波子さんに続き、ヨシムネは「ミャー」と普通のネコみたいに可愛く鳴いた。

 今までのことが信じられねくなって「おい」と声をかけると、「なんだ」とヨシムネが答えたから、やっぱりしゃべるんだとほっとした。

「警察にオレのこと話さなかったのか?」

「当たり前だろう」

 ヨシムネが、誰の前でも人間の言葉を披露してくれるとは思えない。警察には沙良が連れ去られるのを目撃したのは自分だと話した。追いかけて、何とか公園辺りまで走ったけど見失った。そのあと周りの人に訊きまわって、あのマンションにたどり着いたのだと。

 警察が嫌いだと話していた新聞配達員だったが、俺に名刺を渡したことを証言してくれた。

 自分勝手に動いたことにお叱りを受けたが、犯人逮捕に貢献したからか、おとがめはなかった。公務執行妨害罪も問われなかった。マンションに入る前に110番通報していたことも、功を成したようだ。通報したのにもかかわらず、警察が駆けつけるのが遅かったのは、連続殺人事件の本部がある警視庁にお伺いをしていたかららしい。おかげで先に、不審者として地元の警察官に逮捕されそうになった。

 そんな事情を聞かされながら勝手に動いたことを厳重注意されても、同じことが起こったらまた同じことを繰り返しただろうなと、ぼんやり思った。

「今回のことで、お前のことを見直したぞ」

 また「お前」になっている。

「どうして?」

 ネコと会話をしていることを改めて不思議に思う。もしああいう切羽詰まった状況でなかったら、ネコが話すなんて受け入れられなかっただろう。

「オレの言葉を信じてくれただろう」

 秋人が不思議そうにすると、ヨシムネは続けた。

「女がさらわれたことや、連れ去った車のことを信じてくれた。すべて嘘だった可能性だってあっただろう」

「ごめん、100パーセント信じたわけじゃないんだ」 

 白状する。

「そんな風に見えなかったぞ」

「何度も疑ったよ。でも、もし本当だったらって思った。本当に沙良が誘拐されてたらどうしようって。そしたら助けられるのは俺しかいないって思ったんだ」

「それはオレオレ詐欺に遭うタイプだ。今後気をつけろよ」

 ヨシムネの尻尾がわかめみたいに揺れている。 

 なるほど。自分しか助けられないとか、何が何でも助けようとか、騙される人間の心理だ。ネコに諭されるなんて情けない。

「肝に銘じます」

 途中で買ってきたチュールを出した

「いろいろとお世話になったから」 

「おお、気が利くな」

 棒状のビニールから少しづつ出すと、ぺろぺろと舐めている。

 波子さんにはお菓子の入ったコンビニ袋を渡した。結局彼女に振られてしまったことを話すと、波子さんは微かに笑い、ヨシムネには不甲斐ないと馬鹿にされた。自分でもそう思うので反論できない。

 冷蔵庫を開けた波子さんが、ついでに麦茶を出してくれた。

 いつも波子さんがやっているように縁側に座って庭を眺めた。

 花を咲かせているノウゼンカズラとぽつぽつ生えているホオズキは同じ橙色をしている。暗くなり始めた庭で、そこだけがやけに色が鮮やかだ。

「ねえ、波子さん。俺、今回のこと、ちょっとうまく行き過ぎたって思うんです」

 波子さんは座布団に座り、ヨシムネはしきりに口元を舐めている。

「ヨシムネが助けてくれたこともそうですけど、警察は初め、俺が初めから犯人の居場所を知っていたんじゃないかって、疑っていたんですよ」

「それは、秋人さんの心の窓が広くなったからですよ」

「心の窓ですか?」

 単語の「心」と「窓」をくっつけてみるも、理解できない。

「今回は亡くなった動物や女性たちだけじゃなく、風とか木々とか太陽が秋人さんに協力してくれたんですよ」

 おっとりと波子さんは話す。

「そうなんですか?」

 腑に落ちないものの、思い返してみる。

 ネコたちが公園まで案内してくれた。

 マンションにたどり着いたのは、新聞配達員に出会ったからだ。新聞配達員は目の前を通り過ぎたのに、新聞が風で煽られてバイクを止めた。

 マンションのA棟まで行ったのは、ユウガオの香りを嗅いだから。人影を認めて血の跡に気づいた。

 最後に朝日だ。犯人と対峙したとき、雲の間から朝日が差した。それで犯人の胸元が光ったんだ。

「本当だ。色々助けてもらってる」

「亡くなったネコや女性たちの悲しみや恐怖や悔しさを、自然は感じていました。だから秋人さんに協力をしてくれたんです」

 やっぱり導かれていたのか。

「でもそれは特別なことじゃないんですよ。自然はいつも踏みにじられたものの味方です。秋人さんはそれらを素直に受け止めて、誘拐された女性にたどり着いたんです」

 警察は、結局俺が運がよかっただけだと結論付けたが、そういうことだったのか。

「オレが人の言葉を話すことも簡単に受け入れただろう」

 ヨシムネはぺたりと座っている。

「受け入れなかったらどうなったんだ?」

「別に、どうにもならない」

 どうにもならないっていうのは、沙良を助けられなかったってことだろうか。

「それは、朝顔のお陰じゃないですか」

 波子さんは、以前トキさんを埋めた灯籠の辺りを見た。小さな山になっている。

「トキさんと気持ちが通じたことで、自然の声を聞く道ができたんですよ」

 自分が特別な人間だと言われたみたいで気分がいい。

「俺ってすごいですよね。ソロモンの指輪みたいじゃないですか」

 指輪をはめたら動物の会話を聞けるようになるという、ソロモン王の逸話を聞いたことがある。

「まさか。少し他の人より勘がいい程度ですよ」

 波子さんが軽く言う。その程度のことなのか。

「これから、面倒ごとに巻き込まれるかもしれないな」

 ヨシムネは不吉なことを言う。

「お前ねえ」

 額の間を指で掻いてやると、気持ちよさそうに喉の奥を鳴らしている。そんな秋人たちの様子を波子さんは楽しそうに見ている。

 すっかり日は落ち、虫の音がセミからスズムシへと代わっていった。

 これから起こることは予想できないけど、とにかく今回は無事終わったことに感謝する。

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