5
なんで、あと少しというところで、こんな邪魔が入るだ。
「怪しい者じゃありません」
ヨシムネが「ニュアー」と加勢するように鳴いてくれる。でも、二人の警察官が頷くように顔を見合わせたので、余計に怪しいと思われたことを知る。
「彼女が誘拐されたんです」
必死で訴えたのに、制服警官の表情は変わらない。
「犯人は絶対このマンションにいるんです」
この瞬間でさえ、沙良が危険な目に遭っているかもしれないのに、「誘拐ってなにそれ。痴話げんかでもして逃げられたとか?」と、一人が笑いながら言った。
「違います」
真面目に話を聞いてもらえないことがもどかしい。
「とにかく来て。近所迷惑でしょう」
警察官の一人が秋人の腕に手を伸ばしたのを振り払った。警察官が痛いというように顔をしかめ、おもむろに口元を引き上げた。
やばい。これってテレビドラマで見たことがある公務執行妨害ってやつじゃないか。逮捕されるとか。
焦っていると、隣の部屋のドアが薄く開いた。603号室の住人だ。うるさくて様子を見ようとしているのだろうか。
603号の男は警察官がいると知って驚いたみたいだ。慌てドアを閉めようとする。
そのとき、空を覆っていた雲に割れ目ができて、薄暗かった廊下に朝日が差した。男の胸の辺りを照らす。
秋人の記憶の底がきらりと光った。
秋人の発した「おい!」と、ヨシムネの「ニャー」が重なった。
飛び出して、男が閉めようとしたドアに足を挟む。
「な、なにするんだ!」
男は両手に力を入れて、ドアを閉めようとする。
「その胸に付いているのはなんだよ!」
男は、はっとしたようで自分の胸を見た。黒いズボンに白い半そでのシャツ。これから出社するサラリーマンスタイルだが、シャツの胸の辺りがきらきら光っている。
「止めなさい」
制服警官二人が、後ろから秋人を制した。
「わ、こら、なんだ」
その制服警官にヨシムネが飛びかかる。
男がいきなり力を抜いたから、ドアは勢いよく開いた。
あっと、前のめりになったところで、男が廊下に飛び出す。
「待てよ。おい」
秋人より、ヨシムネの方が早かった。廊下を走って非常階段を駆け下りようとした男の顔に張り付いたのだ。
男はガタバタダンと大きな音を立て、階段を落ちた。
後を追った秋人がドキドキしながら見下ろすと、男が足首を押さえているだけで、大した怪我をしていないことを見て取った。
「君、大丈夫?」
制服警官は階段を下りて、落ちた男を心配している。
「刑事さん、この人の誘拐犯です!」
秋人が叫んだ。
「おまわりさん、助けてください!」
一方男は脅えたようにこちらを見ながら、制服警官に助けを求めた。のっぺりとした顔立ちで、気が弱そうに見える。
制服警官は秋人と男を見比べて、男の方を信じたようだ。厳しい表情で秋人に向き直ったので、秋人はその場から逃げた。
「ああ、おい。待ちなさい」
廊下を走って、男が出て来た603号室に飛び込むと、ヨシムネも付いてきた。
「おい、待ちなさい。ちょっと君!」
ドアの外で制服警官の声がするが、秋人は鍵をかけた。
「どういうつもりだ。おい!」
ドアが叩かれる音を聞きながら、大変なことになったと思った。
部屋は寒いぐらいにエアコンが効いているのに、秋人の汗は全然引かない。
ここで沙良を発見できなかったらどうする。あの男が誘拐犯である確証はあるのか。せめて何か、沙良の行き先を知るものが手に入らないか。
「沙良!」
靴を脱ぐのがもどかしい。
「早く」
ヨシムネがそのまま先に行くので、秋人も土足で上がった。
廊下があってすぐの右側のドアを開けると、洗面所になっていた。人影はない。
突き当りはリビングとダイニングが一緒になっていた。カウンターで仕切られたキッチンも付いている。
マンガ本とかゲーム機とか服とか散らかっているけど、ゴミはちゃんと分別され、捨てられていた。キッチンは普段使っていないのか、調理台にインスタント食品が置かれている。シンクには洗われていないマグカップや皿があった。
ソファの下まで覗いてみたけど、何もなかった。
隣は寝室になっていた。
大きめのベッドがあり沙良の姿はない。
クローゼットを開けてみたけど誰もいなかった。
「沙良!」
呼んでも返事はない。
沙良はどこにいるんだ。
もう沙良がこの世にいなかったらどうしよう。あのすべすべの肌に二度と触れられないんだ。不吉な予感に、体の奥からじんわりと染み出すように涙があふれ、秋人は顔を覆った。
どれだけそうしていただろう。
顔を押さえて脱力していたら、ヨシムネの声がした。激しく、誰かを呼ぶように、ネコの声で鳴いている。
「ヨシムネ、どこだ?」
立ち上がると体の芯がぶれてしまったみたいにふらついた。
廊下に出ると、外から開けようとしているみたいで、ノブがガチャガチャ音がする。
もうどうでもいいやと思ったら、「こっちだ」とヨシムネに呼ばれた。
一番最初に開けた洗面所だ。
洗面所の奥にある、風呂場に続くドアノブにヨシムネは張り付いていた。
「鍵!」
さっきは気づかなかったけど、風呂場は後付けされた南京錠で閉じられていた。
リビングに戻っても、鍵らしいものは見当たらない。クローゼットの中に道具箱があったのを思い出して、ペンチを取って来た。
「開けるから、どいて」
ペンチで金具を切断して、南京錠を外す。
ドアを開け中に踏み込んだ。
すると、浴槽に……いた。
沙良だ。
縛られて口をガムテープでふさがれている。
「沙良?」
もしかして……。
目をつぶっていた。
心臓が誰かに握りつぶされたみたいにぐっと縮まる。
固まっている秋人をよそに、ヨシムネは浴槽のヘリに飛び乗り、そこからゆっくり沙良の胸元に下りた。
「あたたかい」
その言葉に、魔法が解けたみたいに体が動いた。近づいて沙良の顔に頬を寄せると、息遣いを感じる。
「沙良、沙良、大丈夫か? 沙良?」
体を揺すり、ガムテープを外す。
沙良はうっすら目を開けると「秋人?」と小さいながらもはっきり声を出した。
「どこも痛くない? 怪我は?」
ゆるりと沙良は首を振る。
「体を起こして、縄を解くから」
もぞもぞ沙良が起き上がったので、秋人も浴槽に下りた。
「沙良沙良沙良沙良」
後ろから両手で包むように沙良を抱きしめた。
「ねえ、どうしたの。くすぐったいよ」
沙良はくすくすと笑った。
沙良を取り戻したことが心から嬉しかった。
無事で本当によかった。
もう、何いらない。沙良が無事で、それだけでいい。
今まで神様の存在なんて意識したことなかったけど、生まれて初めて神様に感謝した。
沙良は頑丈に縛られていて、悪戦苦闘していたら、制服警官が風呂場に突入して来た。沙良から離れるように命じられ、凶悪犯のように取り押さえられる。秋人は「違います」とか「止めてください」とか、叫ばなくてはならなかった。
その後、沙良は救急車で運ばれ、秋人は事情を聴かれた。ヨシムネはいつの間にかどこかに消えていた。
秋人は警察署にまで出向き、バイトを休む連絡をさせてもらえた以外は、まるで犯人のような取り調べを受けた。
一番初めに、家から出て来た男をなぜ瞬時に犯人だと特定できたのか聴かれた。秋人は犯人の胸に付いていた星のシールが、朝日を浴びて光ったと話した。うちの前で待っていた沙良の爪が、きらきら光っていたのを思い出したのだ。
長い事情聴衆が終わり家に帰ったら夕方で、待っていた波子さんとヨシムネにお礼だけを言ってシャワーを浴びると、万年床に倒れ込んだ。
神経が高ぶっていて眠れないかと思ったけど目をつぶった。
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