秋人 1

 ちょっと待ってくれ、めちゃくちゃ綺麗になってるんですけど。

 二週間ぐらい会わなかっただけなのに、なにがあったんだろう。ずっと元気な可愛い女子って感じだった沙良が、今日は愁いを帯びて大人っぽかった。

 危ない危ない。

 沙良を抱きしめたときの、もっちりとした心地良さを思い出してしまい、よだれが出そうだ。

 手を伸ばそうとしたら、逃げられてしまった。煩悩まみれの顔をしてたんだろうと思うと、恥ずかしい。

 沙良の背中を無言で見送り大きくため息をつくと、門扉を開けた。原付を庭に置く。

「ただいま」

 眠っている波子さんに小声で挨拶した。

 室内に一歩入ると、重力が増した気がした。今日一日中立ち仕事だったから疲れた。

 十時を過ぎていた。本当はもう少し早く帰れたのに、事故で交通規制があって、遠回りをさせられたのだ。

 あれ? 沙良っていつからあそこにいたんだろう。疑問に思ったのは、自分の部屋に入ってからだった。こんな熱帯夜に外にいて、辛くなかっただろうか。それも夜中に一人で帰して危なくないか。

 せめて駅まで送ればよかったと思い電話をかけてみたら、呼び出し音が留守電に切り替わった。

 電車の中だろうか。

 無事に帰ったら連絡が欲しいとメールを打って、シャワーを浴びた。中華料理店の厨房で働いているから、体が油臭くなる。

 一息ついてスマホを見たけど、沙良からの返信はなかった。

 さんざん沙良からのメールを無視したのに、自分が無視されたらこんなに気になるんだ。

 自分の勝手さにあきれてしまう。


「おい、起きろ、ぼんくら! 起きろって言ってるだろう」

 体が重くて目が開けられない。芋虫みたいにもがいていると、背中をバシバシと叩かれて、何とか薄く目を開けた。

 すると暗い自室に豆電球ぐらいの光が二つあった。

「やっと目を覚ましたか」 

 喋っているのがクロネコだと知って、まだ夢の中にいるのだと思った。ときどき家で見かける奴だ。

 なんだよ、この夢。

 目をつぶったら頬に痛みが走った。

「何するんだよ。痛いだろう」

 引っかかれた。

「いい加減にしろよ。大変なんだ。女がさらわれた」

 女?

 むくりと起き上がると、胸の上に置いていたスマホが滑り落ちた。

 そういえば、沙良から連絡を待ちながら眠ってしまったんだ。

「ちょっと、来い」

 クロネコに言われて従ったのは、半分眠っていたからと、女がさらわれたというワードが強烈だったからだ。時計を見ると十二時過ぎだった。二時間ぐらいしか眠っていない。

 居間に入ると、縞々の浴衣を着た波子さんが座卓に向かっていた。起きがけなのに背筋がしゃんと伸びていて、浴衣に乱れがない。

「やっと起きましたね。ちょっとそこにお座りなさい」

 向かい側にある座布団を指さす。

「どうしたんですか?」

 波子さんの表情は硬い。

「昨夜の七時ぐらいかしら。女性が秋人さんを訪ねて来られたんですけど、私は留守だと申し上げました。だから帰ったとばかり思っていましたのよ」

「それが違ってたんだ。その女、うちの前でお前のことを待ち伏せしてた。オレが通りかかったら、うるさそうに追い払った」

 クロネコはやっぱり人間の言葉を話している。

「夜更に集会へ行こうとしたら、その女が車に押し込められて連れ去られるのを見た」

「それって、沙良?」

「名前は知らないが、家の前でお前を待っていた奴だ」

 なんでだ?

 混乱はすぐに後悔に変わった。

「会ったよ。話をした。でも送らなかったんだ」

 待てよ。そういえばこのごろ、若い女性ばかりさらわれてなかったか。胸の悪くなる事件が多発している。被害に遭った女性には接点がなく通り魔的な犯行だと言われていた。

 ぞっとして、今度こそはっきり目が覚めた。

「警察には?」

 波子さんが首を振った。

「目撃したのがヨシムネさんですから」

 ヨシムネってこのネコか?

 不信の目を向けると、「なんだよ。ネコを差別するのか」とクロネコはしっぽで畳を叩いた。いつの間にかネコが話すことを受け入れている。朝顔に好かれるという不思議な体験をしたせいか、ネコが喋るぐらいありえると思ってしまった。

「それで、車のナンバーは?」

「ヨシムネさんは読むことが苦手なんです」

「なんだよそれ。日本語喋れるなら読むぐらい出来るだろう」

「はあ? お前はネコ語を喋ったり読んだりできるのかよ」

 申し訳ありませんと頭を下げたくなり、相手がネコなのでやめる。

「沙良が連れ去られたって事実だけ知らされても、どうしようもないじゃないか」

 拳を握りしめると爪が肌に食い込んだ。頭の中が沙良の笑顔やすねた顔や泣きそうになったさっきの顔とかでいっぱいになって、苦しくなる。

 握りしめたままのスマホを見るが、返信はない。もう一度電話をしてみたが繋がらない。

 思いついて沙良の仲が良かった友人に電話をしてみた。美紅じゃない。萌という、ちょっと舌たらずな女子だ。

 電話は数回鳴って、本人に繋がった。

「……秋人君?」

 自分の名前が登録されてみたようでほっとする。

「そうだけど、沙良知らない? 連絡取れないんだけど」

「……何それ。うまくいったんじゃないの。今日は待ち伏せするって言ってたよ。あとで成果を報告するって。でも連絡ないから今頃一緒にいるって思ってたんだけど……」

「いや、一緒じゃない」

「そうなの?」

 何か考えているようで、萌は黙ってしまった。

「捜してるんだ。事件に巻き込まれた可能性がある。そっちの方でも捜してくれないか」

「いいけど……」

「お願いだ。さらわれたかもしれない」

「なにそれ……」

 半信半疑ながらも、出来る範囲で捜してくれると約束してくれた。

 こちらのメールアドレスを告げて電話を切る。

 萌ってあんなてきぱき話したっけ? 寝起きだったからかな。大学でみんなに囲まれているときの萌は、もっと頼りなく妹みたいなキャラなのに、電話だと別人だ。 

 いやいや、今は、女子に対する認識なんてどうでもいい。

「何かないのかよ。さらった奴。顔、見たんだろう」

 ヨシムネに詰め寄る。

「男は趣味の悪いサルのマスクを被っていた。車は黒で角がへこんでた」

 貴重な情報だが、それを生かすスキルが自分にはない。

「これでも車の跡を追いかけたんだ」

 ヨシムネは得意そうにしっぱを振った。

「じゃあ、男の行き先はわかってるのか」

「いや、そこまでは無理だ」

 あっさりヨシムネは言う。

「当たり前だろ。車は速いんだ」

 まあ走っている車に、ヨシムネの短い足では追いつけまい。

「今、お前、オレを短足って思っただろう」

 図星を差されて言葉に詰まる。

「仕方ないだろう。ネコなんだし」

「見損なってもらっては困る。確かに車には追いつけなかったが、集会で有力な手掛かりを得た」

 いつの間にかクロネコの話に、引き込まれていた。

「ネコの?」

「当たり前だろう。そしたら心当たりがある奴がいたんだ」

 こいつはネコとも話ができるんだなあと当たり前に感動する。

 ヨシムネが「ここから大きな通りに出て……」と、説明を始めるので秋人は立ち上がった。

「すぐに行くから案内して」


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