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 夢を見た。

 浴衣姿の女性とお祭りの夜店を巡っている。

 女性の顔は分からない。白く靄がかかっていて、はっきり見えないのだ。でも浴衣の柄は朝顔で、淡い朱鷺色の花が全体に散らばっていた。

 秋人としてはもう少し派手なお祭りの方が好きだった。夜空に花火が上がって、友達とはしゃぎたい。

 でも一緒にいる女性は見るものすべてが珍しいようで「ねえ秋人さん、あれ何ですか?」と一つずつ屋台を指差して訊いてくる。その様子が楽し気で、こういうのもいいかと思った。

「なあ、なんで俺と一緒にいるんだ?」

 でもこの状況は不可解だ。

「さあ、なんででしょうね」

 女性の答えは要領を得ない。

 それから屋台すべてを回ったところで、一番肝心なこと訊いた。

「名前を教えて欲しいんだけど」

 さっきから秋人は名前を呼ばれているけど、秋人は女性の名前を知らない。

「名前ですか」

 子どもがヨーヨー釣りをする様子を羨ましそうに見ていた女性は、ぱっと顔を上げた。 

 やっぱり顔のつくりはぼんやりしている。

「だってどう呼べばいいか分からないだろう」

「そうですね。秋人さんが好きに呼んでくれていいです。そうだ。私に名前を付けてください」

 名前がないはずはないから、知られたくないのだろうと解釈する。

 困った。誰かに名前を付けたことなんてない。

 それでも秋人は考えた。一番目を引くのは浴衣の朝顔だ。

「じゃあ、トキってどうだろう。トキさん」

 口にしてからしまったと思った。朱鷺色のトキだけど、鳥の朱鷺って絶滅の危機に瀕してなかったか。

「トキ、トキ、トキ」

 女性は数回繰り返すと、嬉しそうな声を出した。

「気に入りました。今から〝トキ〟が私の名前です」

 もしかしたら〝時〟を連想しているのかもしれない。それなら一層儚いイメージがあって自分の軽率さを恥じたが、女性がはしゃいだ様子を見せるから、今更訂正できない。

「それで、トキさんは何がしたいの?」

 屋台には提灯が灯り、辺りをぼんやりと照らしている。

「私も、ヨーヨーが欲しい」

 小学生かよ。

 ここで秋人はヨーヨー釣りの腕前を披露した。

 地元で妹たちを連れてお祭りへ行くと、必ずヨーヨーを欲しがったから、釣ってやるのが当たり前だった。

 浴衣に合った色のヨーヨーを釣り上げると、トキさんは秋人に抱きついて喜んだ。

 そのときトキさんの匂いがした。それは香水のような花の香ではなく、どこか懐かしい秋人が子供の頃に嗅いだ夏草の香りだった。

 釣り上げたヨーヨーは、トキさんの手の平にすっぱり収まった。

 トキさんは輪ゴムを指に絡めて、ポンポンと付いて見せる。

「これ、一度でいいからやってみたかったの」

 ヨーヨーどころかお祭りさえ初めてみたいだ。

 もしかして、トキさんって、あの朝顔だったりして。

 そんな思いが胸をかすめる。

 その後、綿あめやイカ焼きを食べながら歩いていると、これは夢なんだと気がつきはじめた。

 すべてが無料。ありえない。


 夜の色が浅くなり、目覚める時間が近づいてきた。遊んでいる子どもの数が減ってくる。

「ねえ、トキさん」

 あの朝起こしてくれたお礼を言っておきたい。

「なんですか、秋人さん」

 手にヨーヨーを下げたトキさんがこちらを振り返った。多分真剣な表情をしているのだろう。

「あのさあ……」

 そのとき、一瞬で目の前が闇に包まれた。

 子どもの悲鳴が上がったと思うと、夜店の世界が天から破れ、禍々しい黒い物が侵入する。

 すべてが消え去り、秋人の体は闇に縫い付けられたみたいに固まった。

「トキさん、大丈夫?」

 自由な口だけを頼りに辺りを探すが、トキさんの姿はない。無事なんだろうか。

 必死で体を動かそうと悶えていたら、荒い息遣いを感じた。何か悪いものが自分に近づいてくる。

 でも逃げられない。

 これが眠った状態に陥る金縛りであることを頭で理解していた。こんなとき指一歩でも動かせれば、体全体が動くようになる。

 ところが焦れば焦るほど、体が石のように重くなった。

 悪いものがどんどん近づいてきて、黒い棘の生えた鎌が視野に入った。

 あれで刺される?

 絶望した。

 秋人の鼻が腐った臭いを嗅ぐ。

「た、たすけて」

 そう呟いて目を閉じたとき、パリンッと、陶器が割れるような音がした。


「大丈夫ですか」

 波子さんの声がして、ふすまが開いた。

 夢から覚めると部屋は薄明るくなっていた。

 雨はいつの間にか上がっている。

「ああ、波子さん……」

 心臓がまだドキドキしていた。夢だと分かっているのに生々しい邪気を感じたせいで、背中が汗で濡れている。

「何か邪悪なものがこの部屋に上がり込むのを感じて、慌てて来ましたの」

 波子さんは秋人の部屋をぐるりと見まわし、ある一点で視線を止めた。つられてその視線を追うと、昨夜は咲きそうだった朝顔の鉢が粉々に砕けていた。

「あら、まあまあ」

 波子さんが部屋の中に入って来る。

 秋人も起き上がり砕けた鉢をのけると、その下で咲きかけの朝顔が萎れていた。

「トキさん?」

 根が露わになっている。

「これですね」

 波子さんが鉢の一片を指さした。

 鋭利にとがった鉢の欠片が、大きな百足を貫いていた。百足は息たえている。

「助けてくれたの?」

 部屋の隅に、朱鷺色のヨーヨーが転がっていた。


 夏休みに入りバイトの数を増やした。

 沙良から遊ぼうと連絡がきても、スルーしている。 

 コンビニで夜通し働いて早朝帰って来ると、もう波子さんは起きて新聞を読んでいた。

「朝顔はどうしました?」

 秋人の心臓がきゅっと縮んで鈍く傷んだ。

 言葉にすれば、部屋に侵入した百足をたまたま割れた朝顔の鉢が刺しただけのこと。何も気に病む必要はない。でも秋人は、夢に現れたトキさんが命がけで助けてくれた気がしてならない。

 秋人はだまって首を振った。新しい鉢に植え替えてみたけど、根付かなかった。枯れてしまったままである。

 柱に吊っていたヨーヨーは日に日に小さくしぼんでいった。

「庭に埋めてもいいですか?」

 せめて土に還したい。そうすれば庭の一部になる。

「そうなさるのが一番いいのかもしれませんね」

 庭土はさらりと乾き、あの日の雨が嘘のようだった。

 波子さんからスコップを借り、トマトの苗近くに穴を掘った。

「次はいっぱい花を咲かせるんだぞ」

 秋人には祈ることしかできない。

 空にはもう入道雲が生まれていて、今日も暑くなることを予想させた。

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