2
蒸し暑い日が続いた。
昼に起きると、波子さんはレースのサマードレス姿で縁側に座り、庭を眺めていた。ときどき見かける黒猫が波子さんの隣に置物のように座っている。
お年寄りが熱中症で倒れたというニュースを聞いたことがある。エアコンを点け、部屋で涼んで欲しいと頼んでみたが、波子さんは笑って取り合ってくれなかった。部屋にいても網戸にしている。以前同居していた息子さん夫婦が全部屋にエアコンを設置していたので、秋人はその恩恵にあずかっているのに。
「ほら、それにもしじいさまがお迎えに来ても、窓や戸が閉まっていたら、入れませんでしょう」
そんな軟弱なお迎えなんてあるものかと突っ込みたくなる方で、波子さんがさらりと「お迎え」と口にしたことがショックだ。
「冗談言わないで下さいよ」
返す口調が強くなってしまった。
「そうそう、朝顔はどうなりました?」
波子さんがさらりと話題を変えた。
「あれ、そう言えば……」
忘れていた。
部屋に戻って見ると、植えたときはへたりと垂れていた葉が、元気に上向きになっていた。新しい芽もある。
鉢を持って縁側に座る波子さんの元に戻ると、「ようございましたね」と、自分のことのように喜んでくれた。
「それならもう外の光を浴びても大丈夫でしょう」
そう言われて秋人は庭に出た。トマト苗の横が日当たりがいいので、鉢を置かしてもらう。
するとそのときもわりとした熱い風が吹いた。せっかく上を向いていた朝顔の葉が、風を拒むようによれる。
「あらあら」
それを見て、波子さんが笑った。
「どうやら秋人さんと離れるのが嫌みたいですね」
時々波子さんは植物の気持ちが分かるんじゃないかと思うことがある。いつも「暑くて辛いわね」とか「大きく育って偉いわね」とか、庭木に話しかけているからだ。それに妙に鋭いところがあって、霊感でもあるのではないか……いや、やめよう。そういう話は苦手だ。
「まさか」
「とにかくその朝顔にはまだ外の光は強いみたいです。秋人さんのお部屋が気に入っているようですし」
そういう訳で、朝顔は秋人の部屋に戻ることになった。
前期試験が始まった。初日から苦手な教養課程の英語だ。
秋人が理系を選んだのは文系が苦手だったからで、とくに外国語は壊滅的だった。将来は安定の公務員希望。
妹たちのことを考えると留年はできない。友人にノートを借りて、とにかくこれは暗記しておけと友人に言われた三ページほどを、前日に丸暗記した。
必死になっていたら朝になっていた。
一時間目がテストで寝る時間はないのに、暗記したという達成感から、眠気に襲われた。
無理して徹夜するより、少し眠った方がテストに集中できるんじゃないか。そんな考えた浮かんだときには、頭が机にくっついていた。
どれくらいそうしていただろう。
背中をくすぐられるような妙な感じがした。手で払いのけようとしても、背中だから届かない。もどかしくて腕を動かしていると、その手を掴まれた。きつく締め付けられ、痛みで目を開ける。
はっとして時計を見ると、八時半になっていた。
やばい。テストは九時から、原付で走ればぎりぎり間に合う。
手をさすりながら立ち上がり、慌てて家を出た。
途中でさっきの痛みはなんだったんだろうと手首を見ると、細い紐か何かで引っ張られた跡が付いていた。ちょっとぼこぼこしていて、普通の紐ではない。痛みも感じたから夢ではないのだろう。不思議に思ったけどテストの方が気になり、取り合あず疑問は脇に置いた。
結果は驚くほどよかった。
友人に感謝した。英語でこれほどの手ごたえを覚えたことはない。
まあ、まだ取れたとは限らないが。
教室を出ようとすると沙良が前に立った。
「ねえ、どうして連絡くれないの」
へっと、声が出そうになった。浮気がバレたとき、沙良は怒って「許さない!」って叫んだ。あれは別れるってことだと思った。実際あれから沙良から連絡はなかったから、自然消滅したと思っていた。
「連絡していいの?」
「当たり前でしょう。美紅から聞いたよ。実家で飼っていた犬が亡くなって泣いてたのを秋人が慰めただけだって」
嘘じゃない。
確かに美紅は泣いていた。泣かれると弱いんだ。慰めているうちにしちゃったんだけど、美紅はそこのところは話してないらしい。
美紅だって学科内でのいざこざは望んでおらず、そういう解釈で通すつもりらしい。
ちらりと教室を出て行く美紅と目が合ったが、その目が「うまくやってよ」と伝えてきた。
「秋人ってさあ、妹さんが二人いるでしょう。泣いてる子は見過ごせないだよね」
沙良はいいように解釈してくれる。
「そうなんだよ。でも沙良が怒ってたからもうだめかって思った」
「そんなわけないじゃん」
沙良につられて秋人も笑った。
下宿に戻ると、朝のことを思い出した。手首の跡は、ほとんど消えかけている。
あれはなんだったのか。
ぐるりと部屋の中を見回す。
畳には敷きっぱなしの布団と、窓際に学習机。机は波子さんの息子さんが以前使っていたそうだ。上着や鞄を掛けるポールハンガーは秋人が持ち込んだ。
そしてゲーム機やソフトを入れているカラーボックスの上に朝顔の鉢。
朝顔は切ったすぐ下から新しい蔓が伸び、竹の支柱に巻き付いていた。よく見ると小さな蕾まである。蔓の形を自分の手首へ持っていって比べてみると、蔓のねじれ具合がぴったりと一致した。
朝顔が起こしてくれたとか?
「いやいや、ありえないって」
口していた。
頭を振る。正気に戻れ。
この妄想は痛すぎる。非現実的な確率で朝顔の蔓が自分に巻き付いたと考えても、朝顔から学習机までは遠い。
支柱に巻き付けた護符を指で弾く。
こうなると、何らかの方法で波子さんが起こしてくれたとしか考えられない。
謡や俳句の会で出かける機会の多い波子さんだが、この日は庭にいた。
平たい竹ざるに梅干を並べている。セミが一匹鳴いているが、草木が音を吸収してうるささは感じない。
「今年は雨が多いから、なかなか天日干しが出来なかったんですよ」
梅干を干せたことに満足そうだ。
ばあちゃんを思い出した。梅干がきれいに色づくと喜んだし、カビが生えたら縁起が悪いとさえ言った。
「あら、秋人さん。今日はお二人ですか」
ところが秋人が訊く前に、波子さんはこっちを見て微笑んだ。
「また、止めてくださいよ。俺は一人です」
ホラーは苦手なんだって。
「それより、今朝、起こしてくれましたか? 今日は大切な試験があったのに寝坊しかけたんです。それを誰かが起こしてくれて」
「あら、どうして私が?」
「だって他にいないでしょう」
柔らかい風が吹いて、庭木がさわさわと揺れた。蜘蛛の糸が一本木の枝から垂れていて、その先に丸い葉っぱがぶら下がっている。風に合わせて葉っぱは回転して、丁度そこに光が差しているのか、キラキラ光った。
波子さんはほとんど庭に手を加えないのに、毎年同じ時期に同じ花が咲くと言う。トマトやキュウリでさえ、前年に残しておいた実から芽吹いたそうだ。
それでも荒れた感じはしない。
「秋人さんは誰が起こしてくれたのか、ご存じなんじゃありませんか」
俺が知ってる? なんでそんな風に思うんだ。
はっきり答えが得られないまま、テストは終了した。二、三単位を落とした気がするも、多めに履修しておいたからよしとしよう。
昼を過ぎて雨が降り始め、バイトへ行くのが憂鬱になった。それでもテスト期間中は休んだので、もう休めない。
夕方になって雨は激しくなった。厨房にいる秋人にまで「雨に濡れちゃったよ」とか「電車止まったらどうしよう」とか、客の声が聞こえてくる。
深夜にまでがっちりシフトが入っていて、秋人が帰る頃には雷が鳴っていた。体を低くしながら原付をこいで、下宿に戻るとシャワーを浴びた。
さっぱりして水を飲みながら耳を澄ませると、雷は過ぎたみたいで雨の音だけがする。
部屋に入って明かりを点けると、周りが温かみのある暖色に変わった。畳がじっとりと濡れていて空気がよどんでいるのに、部屋の一か所だけが明るく感じられる。
秋人は朝顔に近づいて皿ごと持ち上げた。蕾が一つほんのり色づいて、今にも咲きそうだ。
「君は誰だ?」
指で葉っぱをはじくと、朝顔はまるでそれに応えるようにぷるぷると震えた。
オカルトじみた話は苦手だ。でもなんか震えている朝顔は可愛い。
押し入れから布団を出すと、倒れ込んだ。
今日は疲れた。
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