第8話 兄弟

 ロザミアははっと我に返って、顔を上げる。


「で、んか……?」

「――まだ閉館まで時間がある。寝ていろ。起こしてやるから」


 ぶれていた視界が、ゆっくりと焦点を結ぶ。

 曖昧だった視界がクリアになる。目

 の前にいたのは、クリストフだった。

 彼は長い足をこれみよがしに組み、膝の上においた本をめくっている。


「! お義兄様!?」


 クリストフは右手の人差し指を口元にあてがう。


「……ど、どうしてここに?」


 声をおさえて尋ねる。


「本を読みに来た。お前は、図鑑を枕に寝に来たみたいだけどな」

「あの、殿下がいたはずなんですけど?」

「アルバート殿下がはいらっしゃった。お前のことをよろしくと言われた。話しているうちに寝たらしな」


 ロザミアは頭を抱えて、机に突っ伏す。


「なんて非礼を。殿下にどうお詫びしたら……」

「問題ない。殿下は許して下さった。あとは頼むと笑われていたし、な。殿下と話しているうちに眠るとは、お前は剛毅だな。昨日、決闘したというのも驚きだが」


 まただ。クリストフは口元を緩め、これまで一度も見せたことのない笑みをうかべる。

 まるで妹の成長を喜んでいるような。


「! ご、ご存じだったのですね……」

「学生は暇だからな。噂話には事欠かない。無事に勝って誇らしいぞ」


 ――そんな優しそうに微笑んで、一体私に何をどうしろと言うんですか!? これから世間一般の仲のいい兄妹みたいに接しましょうとでも!? 無理です! 私たちにはそんなの絶対に無理です!!


 ロザミアはどうしたらこの状況から逃れられるのかで頭がいっぱいになった。


「義兄上!」


 図書館中に扉の開け放たれる音が響きわたる。

 ロザミアたちがそちらを見ると、大きく肩を上下させるネヴィルがいた。

 氷の美貌と謳われる端麗な顔立ちをかすかに歪ませ、ロザミアたちのもとへ脇目もふらずに近づいてくると、ロザミアの右隣に座った。


「ネヴィルお義兄様、なにをそんなに慌てていらっしゃるんですか……」

「兄上に用事がありまして」


 ――よかった! 今が好機!


 歯切れの悪いネヴィルを、頬杖をつくクリストフは見つめる。


「ではあとはお二人でどうぞ。私は帰ります」

「いえ、読書を邪魔するつもりは……」

「気になさらないでください。では!」


 これ以上、何かを言われる前にこの場を脱出する。

 ロザミアは鉱物図鑑を小脇に挟むと、カウンターで借りる手続きをしてから図書館を、足早に出て行った。



 ロザミアが図書館を出て行くと、再び館内に静けさが戻る。耳が痛いほどの静けさとはまさにこういうことを言うのだろう。


「フられたな」

「……ええ。覚悟はしていましたが、うまくいきませんね」


 ネヴィルが憂いの表情を浮かべて呟く。


 ――あいかわらず、この弟は美形すぎて最早嫌味にもならないな。


 落ち込んでいる様子さえ、絵になる。


「仕方ない。俺たちに非がある。ロザミアが戸惑うのもしょうがないだろ」

「これまで通り接するのですか? 私は……絶対に嫌です。これまでずっと、我慢していたんです……」


 ネヴィルは秀でた額に深い縦皺を刻んだ。


「俺だってどれだけこの日を楽しみにしてきたか……。あいつが辛そうな顔をするたび、どれほど胸が締め付けられてきたと思う?」


 そうですね、とネヴィルは目を伏せた。


「全てを打ち明けられればどれだけ気が楽か」

「それで気が楽になるのは俺たちだけだ、残念ながら」

「それは分かっています」


 ネヴィルが憂いを讃えた眼差しをする。


「少しずつ距離を詰めていくしかないだろう。千里の道も一歩から、だ」

「今の時点でかなり不審がられているというのに……大丈夫でしょうか」

「お前、頭い良いんだからこういうのはお得意だろう。俺は脳筋だからな」


 フッとネヴィルは寂しげな笑みをのぞかせた。


「私は頭がいいのではなく、小利口なのですよ。肝心の時に役に立たない。それは考え過ぎて身動きがとれなくなるせいです。本当に頼りになるのは兄上のほうですから」

「お前はよくやってくれてるよ」

「兄上……」

「いい子いい子してやるぞ」

「や、やめてくださいっ」


 クリストフがネヴィルの頭を手に置くと、彼は頬をうっすらと染め、クリストフの手を振り払う。

 クリストフはいたずらを成功させた子どものように、無邪気に笑った。


「っと、まあ、おふざけはこれくらいにして……。第二王子がロザミアと話していた」


 ネヴィルの眉がピクッと震える。


「どんな話ですか?」

「さあな。俺がここに来た時にはもう、殿下があいつのそばにいた。――口説いてたのかもしれないな」

「な……!?」

「かなり距離が近かったんだよ」

「黙って見ていたのですか?」


 ネヴィルはキッと睨み付けてくる。

 巷ではどんな時にも動じず、表情を変えないところから凍り付いた美貌などと言われているネヴィルだが、クリストフからすればこんなからかい甲斐のある表情豊かなやつも珍しいと思う。

 ネヴィルが表情をみせるのは、家族に関することくらいだが。


「すぐに声をかけたさ。そうしたら、ロザミアは寝ていたよ」

「は?」

「殿下が仰るには、話をしている最中に船を漕ぎ始めたらしい。ま、俺たちのせいで疲れたせいだろうな」

「そうでしたか。それはそれとして。どうして兄上は、私を出し抜こうとしたんですか?」

「出し抜く? ずいぶんな言い方だな」


 さっきの苦悩とは違う表情。これは明らかに不満だ。


「ロザミアと交流するなら授業中や休み時間ではなく、放課後にするべきだって言ったのはお前だろ?」

「はい。だから驚いているんです。私は一緒に、と言ったはずです。なのに兄上は私を出し抜き、私よりも一足早くロザミアと話そうとしたのですね」


 ここが図書館ということもあるのだろうが、低いうなりが聞こえてきそうな声で詰められる。


「分かったよ。次からは抜け駆けはしない。約束する。だから、そうツンケンするなよ」

「……兄上の分かったという言葉ほど信用できないということはありませんが……今日のところは分かりました」

「ま、お互い、ロザミアとの距離を縮めないとな」


 クリストフが腰をあげると、ネヴィルが警戒心を剥き出しにした表情で立ち上がった。


「なんだよ」

「……これから、ロザミアの元へ行くつもりではないかと。ロザミアはかなり疲れているようでしたから駄目ですよ」

「分かってる。メシだよ、メシ。お前も付き合え。ここの食堂はあいかわらず種類は豊富だし、うまい。学生時代を思い出す。ここの食堂でメシが食えるだけでも宮仕えを辞めた甲斐があるってもんだ」


 クリストフが歩き出すと、ネヴィルがあとをついてくる。

 小さな時からいつもクリストフが道を切り開き、ネヴィルはおどおどしながら後を着いてきたものだ。

 まるで子どもの頃に戻ったみたいだな、とクリストフは心の中で笑った。

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