お義兄様、今さら溺愛と言われても…!

魚谷

第1話  はじまり

 ロザミアは侍女に起こされる前から起床する。

 腰まで流したストロベリーブロンドの髪に翡翠の瞳、色白の肌。

 毎朝、起床して鏡を見るのがロザミアの習慣だった。

 生まれてから十六年。ここ、ギルディニア公爵家に引き取られて十年。


 ――長い長い夢を見ているような気がするけど、現実なのよね。


 美しい装飾のついた高級な家具に、清潔な部屋。侍女がつけられ、身にまとうものは下着一枚とっても、市井の人々にはとても手が出せない高級品。

 これが両親に捨てられた元孤児だとは、ロザミア自身でさえ嘘のよう。


 ――こんなにも満たされているんだから、家族の愛情まで望んでしまったら、罰があたる。


 ボロ切れをまとうことも、物乞いをすることも、カビの生えた寝床で震えながら眠ることも、子どもを家畜としか見ない連中からも脅かされることもない。

 そこへ侍女が入ってくる。


「お嬢様、もう起きていらっしゃいましたか。申し訳ございません」

「大丈夫。目が覚めてしまったから」

「今日はいよいよ入学式でございますね」


 ロザミアは笑顔で応対するが、侍女は言葉こそ丁寧なものの、一度も目を合わさず、その言葉も平板として感情がない。まるで下手な役者が台詞でも読み上げているみたいだった。


 ――ナニーが懐かしい……。


 ナニーは初老のメイドだ。今から六年前に別の屋敷から、ロザミア付きの侍女としてやってきた。それまで家の中で誰もがロザミアに対して無関心だったが、彼女だけがロザミアに無表情以外の感情を向けてくれた。

『ご家族には内緒ですよ』と言ってアップルパイを作ってくれたり、縫い物も教えてくれたり、ぬいぐるみを作ってくれたり。でもナニーは解雇されてしまった。

 きっと解雇したのは、長兄のクリストフだ。


 一度だけ廊下で、クリストフが『あいつを可愛がるなと言ったはずだ!』とナニーを強く叱責している場面を盗み見たことがあった。あの時は息を潜めていたから、兄たちがロザミアに気付くことはなかった。

 それまでの扱いからも分かってはいたが、あの場面を目の当たりにして、自分はギルディニアの一族の人間ということ以外の価値がないんだと、思い知らされた。


 ロザミアは、青いジャケット、白いパンツという王立士官学校の制服に袖を通す。

 女子の制服としてはスカートでも構わないのだが、動きやすさを優先して(そもそもロザミアは女性的な魅力が欠けていることを自覚しているので)パンツスタイルにしている。

 士官学校はカーマイン王国が建国された五百年前に開学した王国を守護する騎士の養成を目的とした教育機関。三年制で、入学を許されるのは貴族のみ。


 なぜならこの世界において貴族のみが魔法と言われる、この世界に存在するマナと呼ばれる物質を媒介に魔力を使うことができたから。

 魔法を使う人々のことをこの世界では、使役者と呼ぶ。

 元孤児のロザミアにも貴族の血が流れている。

 この国の王家をもしのぐと言われる、ギルディニア公爵家の血が。

 公爵家に引き取られてから初めて知ったことだが、ロザミアの六代前の先祖がギルディニア公爵家の次男だったらしい。


 魔法の腕前は兄である公爵家当主をもしのぐと言われた天才だったが、その性格は残忍で傲慢だった。

 立場の弱い者に対して横暴にふるまい、自分が求めるものは手に入れなければ気が済まないという性分で女好き。

 手を出しているのが貴族階級の娘で済んでいるうちは良かったが、ある日、手を出したのは皇女だった。

 それも、間もなく他国の皇子に嫁ぐはずの。

 この醜聞はあっという間に露見して反逆罪に問われ、指名手配を受けた。

 誰の助けも借りられず、男は市井に逃げた。

 それからどういう変遷を辿ったのかは分からないが、ロザミアが生まれることになった。


 生まれて間もなく両親に捨てられたロザミアは教会で育ったが、その貧しく粗悪な環境に耐えきれず、同じ境遇の孤児として脱走。

 以来、ストリートで生きたが、盗みを働いたところを発見されて捕まった。子どもであれど盗みは重罪。絞首刑になろうというところに、公爵家の一族を探し求めていた義父に見つかり、命を助けられた。


 なぜ公爵家の当主という、この国のあらゆる人々が仰ぎ見るような人が、一族とはいえ、孤児のロザミアを助けたのか。

 それは魔法を使役する一族はうちに秘めた強い魔力がゆえに、母子ともに命を落とすということがたびたび起こった。

 結果的に貴族の子女は平均して一人か二人がせいぜいで、子化に常に悩まされ、一族の数が減少傾向にあった。

 どの貴族も親類縁者を探し求め、少しでも一族を増やすことに躍起になった。


 だからこそ、孤児であり、どんな人間の血が混ざっているかも定かではないロザミアの命をわざわざ助け、公爵家に迎え入れてくれたのだ。

 姿見の前で身だしなみのチェックを終えたロザミアは部屋を出た。

 士官学校に入れば寮生活を送ることになるから、こうして屋敷で過ごすのは当分ない。

 士官学校は王都のそばにあるものの、学生は長期休暇を除き、学内での生活を送ることを義務づけられている。


 ロザミアの心は弾んでいた。


 ――ようやくこの家を離れられるのね!


 それが嬉しくたまらなかった。


「……お、お義兄様」


 せっかく晴れやかだったはずの気分がみるみる下降していく。

 目の前にいるのは、光の当たり具合によって濃い紫に見える短い黒髪に、明るい紫色の鋭い眼光を持った偉丈夫。がっちりとした肩幅に、仕立ての良い服ごしにも分かる、鍛えられた逆三角形の体格。顔立ちは整っていながらも精悍さが強く出ている。


 公爵家の嫡男、クリストフ・ガウ・ギルディニア。


 魔法を使役する一族に生まれながら唯一、魔法を使えぬ男。

 使役者の一族に生まれながらも運命に翻弄されたクリストフは腐ることなく、士官学校へ剣一本で入学。さらに首席で卒業を果たしたのだ。

 卒業後は王国騎士団に入り、多くの地で魔獣討伐に従事。

 今や王国騎士団の副総長という役職を、若干二十歳にして拝命しているという傑物。


「……ああ」


 ロザミアを一瞥することなく気のない返事を漏らし、クリストフはさっさと食堂へ入っていった。

 ドキッとする。今のは決して聞き間違いではない。

 一つ屋根の下で暮らしているとは思えぬ素っ気ない返事だったが、ロザミアが驚いて居るのはそこではない。


 ――今、ああって……返事をした!?


 いつもは無視するにもかかわらず、それに反応したということ。

 なぜだか妙な胸騒ぎを感じ、落ち着かない気分にさせられた。


 ――冷静に、冷静に……。


 自分に言い聞かせる。

 魔法の使用には、感情が大きく影響する。

 強い感情は魔法を暴走させ、思わぬ事故を引き起こしかねない。

 食堂に入ると、長テーブルにはクリストフの他、次兄のネヴィル・オフィウ・ギルディニアが座っていた。


 いつ見ても、目を瞠ってしまうような美形は目の当たりにするだけで、ぞくっとしてしまう。ネヴィルがここにいるだけで、ここがまるで美しく飾られた舞台であると錯覚してしまいそうになった。

 腰まで届くよく晴れた空のように澄んだ青い髪、同じ色の長い睫毛に縁取られた瞳は満月のような金色。

 ネヴィルの顔は、まるで精巧に造られた人形のようだった。

 そんなネヴィルは『コムリナ』と呼ばれる使役者だ。コムリナとは、二属性の魔法を使える者に与えられる称号。ネヴィルは炎と雷魔法が使える。

 この世に存在する魔法には地水火風雷という五つの属性に加え、治癒や幻覚魔法などの無属性と呼ばれる魔法が存在する。古代の神話にはさらに光と闇という二種類の属性があったと伝えられているが、実際にその二つの属性が目撃された記録はないので、あくまで闇と光の魔法は伝説上の存在とされている。


 使役者の実力は六属性のうち、どれだけを使えるかで決定される。

 それを二つも使えるだけでなく、十八歳にして高位魔法も扱えるというのだから、いかにネヴィルが特別かが分かる。


 ちなみにロザミアは風魔法使い。それもかなりへっぽこ。

 どれだけ頑張っても低位魔法が関の山で、唯一熟達したのは瞬間的な高速移動魔法『縮地』のみという有り様。


 ネヴィルは、宮廷魔導士という使役者の上位一パーセントにのみしか就けぬと言われている役職にある。要するに国家機密に触れられる立場ということ。同僚はだいたい五〇代以上というから、ネヴィルの傑出ぶりが分かる。ちなみにネヴィルは士官学校を若干、十三歳で卒業したという、クリストフとはまた方向性の違う天才である。


「ネヴィルお義兄様、おはようございます」

「……おはようございます」

「!?」


 動揺のあまり、ナイフを取り落としてしまう。

 メイドが新しいナイフを置いてくれる。


「あ、ありがとう……」


 動揺のあまり、声がかすかに震えてしまう。


 ――クリストフお義兄様だけでなく、ネヴィルお義兄様まで? 一体なんなの? 私がこの家からしばらく離れるから、せいせいしているから、最後に挨拶くらい返してやろうっていう気まぐれ!?


 それによくよく見ると、二人ともこれからそれぞれの職場に行くはずだが、揃って私服姿だ。と言ってもロザミアの目からすると十分すぎるくらい上等な服ではあることに変わりはないが。


 ――ま、私が心配するようなことじゃないか……。


 扉が開くと、公爵家の当主、イスケス・エルシ・ギルディニアが入ってくる。

 ロザミアたちは立ち上がった。

 中年と呼ばれる年齢だが、世間の貴族たちのようにでっぷりとした肉付きはなく、固太りの姿。立派に蓄えられた黒い顎髭や黒髪には白いものがいくつか混ざり、クリストフと同じ紫の瞳を保つ。

 ちなみに公爵夫人は、ネヴィルを出産後間もなく亡くなっている。


「……お、おはようございます、お父様」


 特別に誂えられた当主の席に、イスケスが座る。

「三人とも、おはよう」

 席に座ったロザミアは全身の鳥肌が立つのを意識した。


 ――今三人ともって言った!? お父様まで挨拶を返したの!? 一体どうなってるのよ。いつも無視するくせに……。


 公爵家の男たちは揃って、ロザミアがこの屋敷を出て行くのを喜んでいるのだ。

 そうに違いない。もちろんこれまでロザミアは自分が好かれたと感じることなど一度もなかったからどうでもいいことだが、薄気味悪いことはやめて欲しい。いつも通り、ロザミアのことなど眼中にないという態度で接して欲しい。そうじゃないとちょっとしたことでも気になってしまう。

 給仕係によって食事が並べられる。


 ――さっさと食べて、さっさと学校に行こう……。


 クリーミーなホワイトソースのかけられたオムレツを食べる。


 ――相変わらずオムレツだけはちょー最高! このオムレツがしばらく食べられないことだけが唯一の心残り……。


 最後の一切れを食べ終わり、「ごちそうさまでした」と言おうと口を開きかけたその時、イスケスが咳払いする。


「ロザミア」

「!? あ、申し訳ありません!」


 驚きのあまり水の入ったグラスを倒してしまう。

 水は半分くらいだったからそこまで被害はないが、それでも粗相には違いない。

 すぐにメイドが拭いてくれる。


 しかしイスケスは別段、咎めるようなことはない。

 兄たちも冷静に食事を続けている。

 これは子どもの頃からそうだった。引き取られたばかりでテーブルマナーなんて露ほども知らない頃から、どんな粗相をしようが、この三人は目もくれない。

 結局この三人にとって大切なのはロザミアという個人ではなく、ロザミアに流れる血統なのだ。


「……私、もう行かないといけませんので失礼いたします」

「待ちなさい」

「は、はい」


 義父に呼び止められ、びくっとしながら座り直す。


「お前は今日で十六歳だ」

「? は、はい」


 十六歳というのは使役者にとってはとても大切なことだった。

 使役者と普通の人間の違いは、魔導器という臓器の発達だ。

 この臓器で効率良くマナを魔力に変換できるからこそ魔法を使えるのだが、十六歳になるとこの臓器の成長が止まり、マナから魔力への変換が安定し、魔法の制御がしやすくなる。使役者にとって十六歳というのは成人になることを意味していた。


 イスケスはテーブルに置いてあったベルを振る。

 執事が何かを両手に抱えるように入って来る。


「お嬢様、お誕生日おめでとうございます」

「あ、ありがとう……」


 執事が持っているのは、重厚感をたたえた縦長のケース。

 ロザミアはそのケースを受け取る。


「開けなさい」

「……はい」


 恐る恐るケースを開けたロザミアは目を大きくした。


「お父様、これは……!」

「アシュタロトだ。その剣をお前に与えよう。学校へ持って行きなさい」

「この剣は公爵家の家宝ではりませんか! こんな大切なものを……」

「遠慮は無用だ」

「遠慮しますっ! だって、私のようなものがこんなすごいものを……」


 イスケスは眉をひそめた。


「良いから持っていきなさい。それとも儂からの餞別が受け取れぬと言うのか?」

「いいえ、そんなことは……」

「そのアシュタロトは宝剣だ。もちろん普通の剣としても使えよう。だがその剣は、斬れぬものをも斬る……それこそアシュタロトの真価」

「それはどういう……?」

「それを理解するのも勉強のうち。さ、もうそろそろ入学式だ。初日から遅刻するのか?」

「……分かりました。あ、ありがとうございます」


 イスケスは真顔ながら満足そうに頷く。

 腰に帯びると、その存在感というものがより一層、ひしひしと感じずにはいられない。


「では、お父様、お義兄様方、いってまいります」


 三人は、ロザミアを見ると、イスケスは「達者でな」と言い、クリストフは「分かった」と言い、ネヴィルは「気を付けなさい」と言ってくる。


 ――やっぱりみんな、変……!


 ロザミアは廊下を早足で進むと、玄関前に停まっていた馬車に乗り込んだ。


「昨日まで私のことを無視していたのに……ネヴィルお義兄様なんて、気を付けなさいって……一体なにがどうなってるのよ……」


 これまで一度だって誕生日を祝ってもらったことがないのはもちろん、プレゼントだってもらったことがない。なのに、餞別だ。


 ――……って、考えても答えなんて出ないよね。


 余計なことに労力を使うべきじゃない。これから士官学校での新生活が始まるのだから。

 ロザミアは腰に帯びていた剣をしげしげと眺める。

 見事な装飾や、鞘から抜けた時に刀身に宿る魔力からして、そこら辺にあるただの武器とは一線を画すことは、ロザミアにも理解できた。

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