第11話
子供達を学童へ迎えに行って帰宅したのは、普段より少し遅めの5時半過ぎだった。Yが「パン屋さん行く!」と言ったので、帰路とは逆方向にあるベーカリーに寄り道をしたのだ。真夏の夕方は明るいままで、昼間の熱気がアスファルトに溜まっている。子供達がベーカリーへ全力で走って行くのを、電動自転車で追いかけた。「小野ベーカリー」は町に数十年前からある店で、ガラス戸のヒビ割れをガムテープで目張りしているような外観だが、味が良く手頃な価格で地域の人から愛されていた。Yの卒園時の将来の夢が「パン屋さん」であるのは、このベーカリーの影響を多大に受けていると思われる。
「ねぇねぇ、なんて言えば良い?」
店頭に誰も居なかったので、おしゃべり好きのYがソワソワしながら聞いてきた。
「すみません、とか、こんにちは、で良いんじゃない?」
知見を得て自信を手に入れたYは、店頭に向かって
「すみませーん!」
と明るく声を出した。すぐに店の奥の加工室から、中年の女性店主が
「いらっしゃいませ」
と、いつもの穏やかな表情で出てきた。
Yはいちごクリームのパン、Sはチョコクリームのパン、私はクロワッサンを選んだ。
「わたしが払いたい」
とSが言うので500円玉を手渡すと、青いプラスチックトレーの上に置いた。姉が会計する勇士を、Yは羨望の眼差しで見ていた。
「ありがとうございました」
と、店主は姉妹の表情や役割を見極めて、パンの入った袋をYに渡してくれた。決済が姉ならば、商品の受け取りは妹、というように。卒業証明書授与のように、パンの受け渡しは両手で丁寧に行われた。この店主は、私達親子の事はもちろん認識してくれているが、口調が決して砕けない。Sが乳児の時から通っているが、子供に対しても客として扱ってくれる。多くの子供達が、ベーカリーの店頭で消費者として誇らしく振る舞っているのを見てきた。子供達はお店屋さんが好きなのだ。
結局のところ、私の銅版画作品は未完となった。少なくとも客観的には。
他の受講者達は下絵を忠実に再現しようと試みたり、その場で思いついたアイデアを描画したりしていたので、スムーズに工程を進めていた。私も皆んなと一緒に講師の説明を聞き、インクの詰め方、刷り紙の扱い方、プレス機の使い方などを見学した。刷り紙をゆっくり版からはがし、反転した作品の仕上がりに立ち会うのは、息を呑む瞬間だった。想定していたイメージとの違いに驚いたり、あるいは面白がったり…。私は彼らの作品誕生の瞬間を一緒に見届た。インクが刷り紙に吸い付くように転写されていく様子は、合わせ鏡のようでとても美しい光景だった。
夏の夢 @kiriko_san
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