第10話

 私はスクレーパーを右手に鉛筆持ちし、目立てが済んだ銅板をじっと見つめていた。他の受講生は、あらかじめ準備していたらしい下絵を版に写したり、大胆にフリーハンドで描画したり、それぞれの制作に進んでいる気配があった。各々が、柔らかい金属板を硬い金属用具で削る微かな音が、心地よいリズムとなって教室内に重なり合った。

 それらの音のリズムに耳を澄ませていると、講師の男性が声を掛けてきた。

「何か浮かび上がってきそうですか?焦らずゆっくりで良いですよ。急がなくて大丈夫です」

 わずかに微笑みながら、のんびりした穏やかな語り口だった。

「一応、下絵は書いてきてたんですけど…。素材を見ていたら、しっくりこなくて」

 体験教室の通知には日時や持ち物の他に、当日使う銅板の寸法も記載されていた。同様のサイズの紙にあらかじめ下絵を準備しておけば、すぐ転写ができるので、制作がスムーズという趣旨だった。子供達が寝静まった後にハーブティーを淹れ、使いかけのクロッキー帳にラフなイメージを数日に分けて描いてみた。馬のイメージが浮かんだので、スマートフォンで検索した画像を見ながら下絵を描いた。頭を上げて前脚を浮かせ、たてがみを風になびかせている。シャープペンシルで、細い線で一本一本きちんと描画した。

 持参したクロッキー帳は机の上に出してはいたものの、なぜかページを開く気になれなかった。目立てを済ませ、無数の粒がささやかに光る銅板の表面を見ていると、何かしらの声が自分を呼んでいるような気がしなくはなかった。言葉にはならない、暖かいような柔らかいような、小動物の呼吸のようなものが聞こえそうな予感のようなものを感じた。しかし、具体的なイメージは浮かんでこなかった。

 講師はそれ以上は特に何も言わず、他の受講者の方へ巡回していった。一人一人に対して、何かしらの助言や提案を穏やかに行っていた。どうやら制作が進んでいないのは私だけのようだが、不思議と特に気にならなかった。

 

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