第35話
──迎えた御前試合の日。
御前試合に出場するセレーナは、キャロルとは別行動を取っていた。
今日一日キャロルの護衛はクロードに任せ、セレーナは一人、馬で会場の外に来ている。
大きな円形闘技場には、既に騎士の半分ほどは集まっており、慌しかった。
御前試合に参加する者たちと、警備にあたる者たちでは少し顔つきが違うため分かりやすい。
御前試合に優勝すれば国王の目に止まり、出世も夢ではないため、闘志が顔に滲み出ているのだ。
(フィクス様なら、この場に居ても涼しい顔をしていそうだけれど)
そんなフィクスといえば、御前試合の初めだけ王族たちが集まる席に座らなければならないらしく、もう少し後で来るらしい。こういう時、改めて彼は王族なんだと思い知らされる。
(本来王族の婚約者には、公爵令嬢──スカーレット様のようなお方が相応しい。それも、思い合っているならば、なおさら……)
フィクスへの恋心と失恋を自覚した日から、彼のことを考えると、切ない思いに駆られる。
とはいえ、まだ運が良かったのかもしれない。
フィクスが多忙すぎて今日までまともに顔を合わせなかったし、スカーレットとは会うことがなかったため、ぐちゃぐちゃな感情のまま二人に向き合うことはなかったから。
(失恋してから早三日。少しだけだけれど、気持ちの整理ができた気がする。……仮初の婚約者として、フィクス様がいらないとおっしゃるまでは職務を全うするのはもちろん……この恋心は、捨てる)
セレーナはそう誓うと、愛馬の首周りを優しく撫でる。
それから、厚い雲に覆われている空を見上げた。
(空気はそれ程湿っていないように感じるから雨は降らなさそうだけれど、陽が射していないから暗いな……)
──何故だろう。
いつもならば曇り空を眺めてもなんとも思わないというのに、今日は不思議と心がざわついた。
なにか嫌なことが起こりそうな、そんな予感がしてならない。
(……ふぅ、だめだ、こんなことで平常心を乱しては。私はキャロル様に勝利を捧げるために、頑張らなければならないのだから。それに、フィクス様の仮初の婚約者としても、恥ずかしい姿は見せられない)
そう思うことで、セレーナは一抹の不安を胸の中に押し込めた。
同時に、失恋がなんだ、曇天がなんだと、自分自身に活を入れる。
(とにかく、今日は勝つことだけを考えよう)
セレーナは馬を指定の場所に繋いでから、会場の中に向かう。
そして、会場の地下にある選手たちが集まる待機室へと足を運んだ、というのに。
「──最後の準決勝進出者は、セレーナ・ティアライズ!!」
──三時間後のこと。
トーナメント制の御前試合。順調に三回戦を突破したセレーナは、相手の騎士と試合終わりの握手を交わした。
観客席からは地鳴りのような歓声と拍手の音が聞こえる。
そんな中で、「セレーナ素敵よぉぉ!!」という甲高いキャロルの声と、「俺の妹は最強だぁぁ!!」という太いクロード声がはっきり聞き取れたことには心底驚いたが、それは一旦置いておいて。
「……っ」
観客席に囲まれた舞台から、地下の待機室に向かうための出口が二つある。
対戦相手だった騎士とは反対側の出口から階段を降りたセレーナは、観客席から自分の姿が完全に見えなくなったタイミングで、左手首を反対の手で支えた。
「これはまずいかも……」
階段を照らすオイルランプの灯りにより、手首が腫れ上がっているのが見える。
動かさなくとも脈を打つようにズキズキと痛み、額には脂汗が滲んだ。
利き手である右手よりかは幾らかマシとはいえ、剣を両腕で振るうこともある騎士にとって、手首の怪我は絶望的だった。
(三日前、フィクス様との手合わせの際に、転倒して手を着いた時に痛めていたのか)
あの時は一瞬の痛みだった。おそらく、安静にしていれば、痛みがぶり返すことはなかったのだろう。
だが、御前試合のため、加えてなにも考えないために、セレーナはここ三日間、いつもよりも剣を振るった。
今日に関しては、腕に自信のある騎士たちを相手に闘ったのだ。
一回戦の終わりに痛みを感じてから、今までなんとか剣を振るってきたが、左手首が痛みという悲鳴をあげるのも無理はなかった。
「……私の自己管理不足だ。……でも、どうにか最後まで──」
ちょっとした動作が痛みに変わるため、ゆっくりと下に降りていく。
地下深くになるたびに、石でできた階段を降りるセレーナの足音は響き、次の瞬間には自分とは別の足音が耳に届いた。
「セレーナ」
「……! フィクス様」
階段の曲がり角から現れたフィクス。
セレーナはサッと左手を自分の背後に動かして、フィクスには見えないように隠した。
一方フィクスは、セレーナが居る場所の一段下の階段まで上ってくると、彼女をじっと見つめた。
「な、何故ここにいらっしゃるのですか? 次の試合はフィクス様ではないはずですが……」
──恋心を捨てる。
そう決めたおかげで他の騎士たちも居る待機室ではフィクスと普通に話せたセレーナだったが、二人きりとなると変に緊張してしまう。
「セレーナに少し用事があって」
「と、言いますと……?」
次の試合の出場者以外は、呼ばれるまで階段を降りた先にある待機室で待っていることが多い。
外の空気を吸うためにセレーナたちが今居るのとは違う階段から地上に出る者は居るが、舞台に上がるための階段に来る者なんて、なんの用事なのだろう。
セレーナは訝しげな表情を見せた。
「左手首、怪我してるでしょ? 隠しても無駄だよ」
「……!」
確信を持って指摘してきたフィクスに、セレーナは目を見開いた。
(どうして……。試合中はどれだけ痛くても態度に出さないようにしていたし、そもそも、フィクス様は待機室に居て、私の試合を見ていないはずなのに)
他の騎士たちの試合中にはフィクスと共に待機室に居たけれど、その時も変な態度は取っていないはずだ。
セレーナが頭をぐるぐるとなやませているうちに、フィクスは彼女の左の二の腕を優しく掴んで、怪我をした手首が見えるように前に出させた。
「……やっぱり。けど、想像以上に腫れてるね」
腫れを見られてしまえば、言い訳はできない。
それに、いつもより低いフィクスの声色がどんな感情を指しているかは、彼の顔を見れば一目瞭然だったから──。
「……っ、ご心配をおかけして、申し訳ありません」
セレーナが謝罪を口にすれば、フィクスは「うん」とだけ言って、彼女の二の腕から手を離し、代わりに左手をそっと握り締めた。
手を握られたことはもちろん、フィクスの手が自分よりも一回り大きいことに、セレーナの胸はきゅうっと音を立てた。
「……何故、怪我をしていると気付かれたのですか?」
気恥ずかしさや気まずさや、申し訳無さ。頭がぐちゃぐちゃの中で、いつもより口数の少ないフィクスに対して、セレーナは疑問を唱える。
すると、フィクスはやれやれと言わんばかりの表情を見せた。
「あのねぇ、俺がセレーナの変化に気付かないわけないでしょ? いつも見てるんだから」
「……えっ」
「多分その怪我、この前の手合わせの時に地面に手を着いた衝撃が原因だよね。あの時、痛そうな顔してたから気になってたんだ。瞬間的な痛みかなとも思ってたけど、一回戦の後から痛んできたんでしょ。口数が減ったし、勝った割に表情は暗いし、時折左手首を気にしたり、無意識に庇ったりしてるし、バレてたよ」
「……そ、それは」
確かに今思えば、そういう部分もあったかもしれない。
とはいえ、そこまで明らかなものはなかったはずだというのに。
「他の奴は誤魔化せても、俺のことは誤魔化せないよ。……セレーナのこと、ちゃんと見てるからね」
「……っ」
握られた手からほんのり伝わるフィクスの体温によって、セレーナの冷えた指先に熱が帯びる。
フィクスの真剣な声色と表情、言葉に、愛されているのではないかと錯覚しそうだ。
(そんなはずは、ないのに)
セレーナは顔を伏せて、悲しみがこれ以上込み上げてこないように唇を噛み締める。
一方フィクスは空いている方の手で、セレーナの頭にぽんと手を置いた。
「……セレーナ。悔しいかもしれないけど、今回の御前試合は棄権しよう。キャロルの護衛騎士として、俺の婚約者として勝利を求める気持ちは分かってたから、できるだけ戦わせてあげたくて今まで黙って見てたけど……。今回の怪我が原因で大怪我でもして、セレーナが騎士でいられなくなる方が嫌だ」
「…………」
「それに、俺の心配がもう限界」
「……っ」
フィクスの言葉はまるで劇薬だ。
自惚れてはいけないと分かっていても、期待してしまう。
捨てたはずの恋心が、どこからか姿を現してくる。
(……もう! しっかりしろ、私! 私は仮初の婚約者だ! フィクス様のことは、好きじゃない!)
セレーナはそう自分に言い聞かせ、フィクスに対して深々と頭を下げた。
「し、承知しました……! 私の本来の任務は、キャロル様をお守りすること! その役割をこれからも果たすため、今から棄権したいとの旨を伝えて参ります! 救護テントに行って手当てもしてもらいますので、どうぞご心配はなさらず! では失礼いたします!」
それからセレーナは、左手首に負担をかけないように細心の注意を払いながら、可能な限り早くフィクスのもとから立ち去らんと階段を駆け下りようとした、のだけれど。
「こらこら、無理しないの」
「……!?」
フィクスに腰を引き寄せられたと思ったら、一瞬のうちに横抱きされてしまっていた。
「え、あの、うそ、え!?」
至近距離にあるフィクスの顔。膝裏と腰に回された筋肉質な腕。
慌てて大きな声をあげるセレーナに、フィクスはぐいと顔を近付けて、ニッと口角を上げた。
「棄権手続きは本人にしかできないから代わってあげられないけど、まだ時間はあるから先に救護テントに行こうね。それと、耳元で大声はだーめ。あんまり煩いと、口で塞いじゃうよ」
「〜〜っ!?」
意地悪さを含む甘やかなフィクス声に、セレーナはの頬は羞恥で真っ赤に染まった。
──しかし、この約三十分後。
「……見つけた」
そんな男の囁き声を聞いた直後、セレーナは意識を失って倒れた。
頭から流れ落ちる血が、セレーナの頬を真っ赤に染め上げた。
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