77.自己紹介はいらない

 この空間はただ現実からは隔絶した空間というわけではない。

 術式の内部に空間を生成する……いわば本の中に現実の人間が入るのを可能にするような空想の偉業。

 希少性だけならば第五域と並び称される第四域の最高峰とされる魔術。


 唯一の欠点は外部に術式を作らなければならず、魔術滓ラビッシュが出てしまう事。

 ブリーナが精神干渉でエイダンを操った際に魔術滓ラビッシュが出てしまったように、使い手の脳内ではなく外部に術式を作らなければいけない魔術は魔術滓ラビッシュが残りやすい。

 第四域の難易度もあり、若き天才であるデナイアルですらその欠点はクリアできなかったが……術式は"現実への余白"であると定義づけたデナイアルの術式は、ほとんどの人間には観測できない。

 そのため術式の欠片を含む魔術滓ラビッシュも他者からは見えなくなっており、デナイアルは唯一の欠点すらも完全にカバーする事に成功していた。

 ――しかし、ここにその唯一の欠点を手掛かりに辿り着いた少年がいる。


「ご無事で何よりですルミナ様」

「カナタ……。カナタっ……!」


 デナイアルはルミナに優しい声色で語り掛けるカナタの背中をただ見つめる。

 その思考は不意打ちを仕掛けるではなく、疑問。

 この空間にどんな方法で入ってきた?

 いや、まず認識できないはずの自分の術式をどうやって見つけた?

 絶対の自信を持つ魔術が、どうやってこの子供に破られたのか?

 敵を見て不意打ちを考えるよりも疑問を抱き、分析してしまうのは魔術師ならではの思考と言える。

 ……それとも、絶対の自信を持つ魔術に介入されたのがよほど衝撃だったのか。


「こんな子供が第四域……。私と同じ領域に……?」


 口にした仮説をすぐさま否定する。

 第四域だからといって必ずしもデナイアルの術式を観測できるわけではない。

 ましてやカナタはまだ子供。その領域に達するには早すぎる。


「まさか、"領域外の事象オーバーファイブ"……? いえ、それならこの空間ごと……わざわざ入ってくる必要などないはず……」


 どちらにしても、デナイアルはカナタへの油断を捨てる。

 メリーベルとの会話の間で取るに足らぬ少年だと判断した自分の甘さを恥じながら。


「カナタくん……君、どうやってここに……?」

「……ルミナ様が消えた場所に魔術滓ラビッシュが落ちてたよ。魔術滓ラビッシュから術式を読み取ったら、扉がある部分に術式が現れた。それをこじ開けただけだよ」


 カナタはデナイアルのほうを向くこともせず、事も無げに返すが……デナイアルにとっては異常事態。驚愕の連続だった。

 魔術滓ラビッシュが見えた事も、魔術滓ラビッシュが見えたからといって自分の術式に介入できる事も、明日には忘れる雑談のように済ませられるものではない。


「なるほど、魔術滓ラビッシュから術式を読み取る……これほどまでに、魔術師にとって厄介なものだとは……」


 デナイアルは自分の中で感情を整理して、平静を取り戻す。

 冷静になれば状況は変わっていない。頭上を見上げれば、カナタによって割れた夜空はすでに元に戻り始めている。この空間が破壊されたわけではない。

 イレギュラーは侵入してきたカナタだけ。殺す人間が一人増えただけのこと。

 カナタさえ殺せば自分の術式は依然として誰も見えないままに戻るのだ。

 それにカナタという希望を殺せば今度こそルミナは従順になるだろうと、デナイアルは薄っすらと笑みを浮かべた。


「ルミナ様、少し待っててくださいね」

「カナタ、駄目……! 助けに来てくれたのは、嬉しかったです……嬉しかったですが……!」


 ルミナは現れたカナタに縋りかけた自分を抑える。

 ここに来てくれたのは嬉しかった。空間に閉じ込められ、縋るものなど何もない場所に来てくれたカナタはルミナにとっても紛れもない希望そのもの。

 しかしカナタが現れて自分を取り戻したルミナの正常な思考がカナタを止める。

 相手は宮廷魔術師、王国の魔術師の頂点その一角。

 いくらカナタが強くても、あまりに相手が強すぎる。

 自分のために戦ってくれるカナタが死んでしまったら今度こそ……もう。

 ルミナはカナタに戦ってほしくない一心でカナタの服を掴んだ。


「大丈夫です」

「ぁ……」


 カナタは優しく笑って、服を掴むルミナの手に自分の手を置く。

 冷えた風だけが吹くこの空間で、ようやく触れられた温かい手にルミナの力が緩んだ。


「俺は、この家の側近候補ですから」

「っ……! カナタっ!! 駄目! 駄目ぇっ! カナタ!! 私のために死んじゃいやぁ!!」


 痛々しいルミナの懇願に応えることなく、カナタは振り返る。

 ルミナに向けていたものとは違って振り返ったカナタの表情は険しい。

 カナタは堂々と草原を踏み歩いて振り返った先にいる……デナイアルと対峙した。


「まさか、本気で私に挑む気ですか? 出口でも探したほうがまだ勝機があるのでは?」

「ないだろ」

「わかるのですか?」

「ええ、入ってくる時に術式の半分くらいは見せてもらいましたからね」


 カナタの一言はデナイアルのプライドに障ったのか、その眉がぴくりと動く。


「あなたのような子供が、私の魔術を?」

「ああ、透明で、すかすかで、簡単だったよ……あんたの魔術を覗くのはな」


 カナタには珍しい、わかりやすいほどの挑発だった。

 それほどにカナタは怒りを覚えている。

 振り返らなくても、入ってきた時に見たルミナの悲痛な泣き顔が脳裏に浮かぶ。

 それだけでデナイアルと対峙する理由には十分すぎた。


「それで? 私に勝てるとでも?」

「ああ、勝つさ。勝たないと、またあんたはルミナ様を泣かせるだろ」

「ふむ……命を捨てると?」

「そんな風に俺を舐めて、ダンレスも返り討ちになったよ」

「あんな貴族と私を同列に考えるとは浅はかですね」

「……同じだろ」


 カナタの声は怒りを帯びる。


「上から俺達を見下すだけじゃ飽き足らず、理不尽に押し付けて俺達から奪おうとする……同じだよ、お前らは!!」


 同時に、カナタの体から魔力が溢れ出るように噴き出した。

 たける感情がカナタの奥底から不可視の燃料を湧き立たせる。

 全身に魔力を漲らせるそれは魔術師と魔剣士の共通した臨戦態勢。

 デナイアルは本気で向かってくるカナタに表情を変えて、問う。


「本気で勝つつもりですか? 宮廷魔術師第七位、このデナイアル・アリシーズに?」


 デナイアルの体からも魔力が溢れ出す。

 その肩書きと巨大な魔力は並の相手なら戦意を喪失させるが、カナタは逆に問い返した。


「一つ確認しておきたいんだけど……俺達は初めましてじゃないよな?」

「……? ええ、前夜祭でお会いしたのが初めましてですが、それが?」

「なら……」


 デナイアルの圧に気圧されることなく、カナタは前へと踏み出す。 


「その自己紹介・・・・に何の意味があるんだ? 宮廷魔術師?」


 その表情に恐れはなく、あるのは目の前の男への怒りと後ろにいる少女を救うという意志の二つのみ。

 肩書きを使っての脅迫になど少年は決して揺るがない。

 カナタは肩書きを恐れず、目の前の男は許してはいけない相手だとただ見据えるだけだった。


「私が宮廷魔術師だと知ってなおその目……私の邪魔をする者など久しい。

光栄に思ってくださいカナタくん。君が死んだとしても、君の存在は私の人生という名の物語の栞として、永久に残るでしょう」

「さっきから訳のわからない事を何度も言う奴だな」


 カナタとデナイアルの魔力が膨れ上がる。

 共にすでに臨戦態勢。魔術を唱える言葉さえあれば、ここは一気に戦場へと変わる。

 だがその前に、


「本の最後に栞はいらないだろ」

「ふふ、はは……! 最高ですね君は!」


 改めてカナタはデナイアルへ明確な殺意を叩きつけた。

 割れた空は完全に閉じ、景色は元に戻る。

 しかし次の瞬間にぶつかる二人にそんな景色は目に入っていなかった。

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