第2話 二回目の朝
遠くで音が聞こえる。これまでに何度も聞いたことのある音だ……。
私は目を開けた。頭がしだいに覚醒する。音の正体が教会の朝の鐘の音だとわかるまでに、そう時間はかからなかった。
私は寝室のベッドの中にいた。いつもと変わらない朝だ。
そんな馬鹿な。ありえない。ありえないことだが、現に私は今こうして、朝の鐘が鳴る時刻にいる。
確かめなければ。物音を立てないよう、静かにベッドから抜け出した。ガウンを羽織り、書斎へと向かう。
私はまず、書斎の扉に鍵をかけた。それから書斎机の前に立つ。この机には仕掛けが施されていて、正しく操作しないと開けられない引き出しがある。フェルゼル家の隠し財産はすべて、各種の証券や債券の形で蓄積され、このカラクリ引き出しに保管されている。それが先祖代々の慣習なのだ。
私は緊張しながら、カラクリを操作した。カチリと仕掛けが外れる音がする。ゆっくりと引き出しを開けた。
中は、空っぽだった。厳重に保管してきた書類である。間違えたり、紛失することは絶対にない。
ショックで、書斎の椅子にどさりと座りこんだ。信じざるをえない。私は今日の午後、殺される。だが同時に、その運命は回避できている可能性もある。隠し財産が消えたとは、そういうことだ。
ともかく、今日という一日を始めなくてはならない。私は寝室に戻って着替えを済ませると、何が起きるかと警戒しながら階下へと降りた。
「おはようございます。旦那様」
声をかけられた私は、思わずぎくりとした。ジェームズだった。父の代からの使用人だ。父が軍務についていた時代の直属の部下だったそうで、勇敢で快活な性格を気に入った父が、退役後に雇い入れたのである。
歳は私より五歳年上だ。多少白髪が混じるようになったものの、体は丈夫で腕力もあり、どんな仕事でもてきぱきとこなしてくれる。元軍人らしく銃の扱いに長けていて、私も射撃のコツを教えてもらった。なかなかの男前で独身、話題も豊富だから、若いメイドたちにも人気がある。
「今夜はぜひ、奥様においしいジビエ料理を召し上がっていただきましょう」
ジェームズはそう言って笑った。私はなんともいえない気持ちになった。彼のせりふは、昨日、といっていいかどうかわからないが、とにかく、前回聞いた時と一字一句違わなかった。
クリスティーヌと共に朝食をとってから、私はジェームズと二人で狩猟に出発した。中止しようかと迷ったのだが、運命を回避できたかどうか、どうしても確かめたかったのである。私はグレーのハンティングジャケットの代わりに、紺のジャケットを着た。何かを変えて『その時』に臨みたかったのだ。
玄関まで見送りに出たクリスティーヌは、いつもながら美しかった。ジェームズを呼び止め、なにか話しながら笑顔で襟を直してやっている。長いブロンドの髪が、太陽に照らされていた。そうだ、この妻を悲しませるわけにはいかない。なんとかして死の運命から逃れなければ。
我々は森へと入った。少し寒いが、気持ちのよい秋の森である。とはいえそれは、自身の運命を知っていなければの話だ。私には、森の風景を楽しむだけの心の余裕はなかった。
なにも知らないジェームズは、さかんに冗談を言っている。残念ながら彼が口にする冗談はすべて、一度聞いたフレーズばかりだった。道筋も同じだ。なにか変化を期待するが、なにもない。
正午過ぎに、昼食休憩をとった。昨日と同じ場所で、昨日と同じサンドイッチを食べる。
「旦那様、お顔の色がよくないようですが?」
心の内が顔に出てしまっていたようだ。ジェームズが心配そうに尋ねてきた。
だが彼の心配とは逆に、私の心には大きな希望が宿った。この会話は、昨日はなかった。こういうささいな違いが、運命を変えるきっかけになるのかもしれない!
「体調がお悪いようなら、早めに切り上げたほうがよろしいのでは?」
「いや、大丈夫。さあ、午後の部を始めよう」
私はあえて狩猟を続行した。撃たれた時刻まで時間を進めなければ、不安でいられない。
午後、私とジェームズはウサギを一羽ずつ仕留めた。先にジェームズ。後から私。この展開も昨日と同じだ。
「旦那様、今日はこのあたりでお開きとしましょう」
二羽のウサギを担いだジェームズが、ついにそう言った。昨日も聞いた言葉だ。私には、死刑宣告のように思われた。
「もう少し、いいんじゃないか?」
「ですが、あまり遅いと奥様が心配なさいます」
私は覚悟を決めた。
「では、そうするか」
我々は帰途についた。森の出口がみえてくる。私は思わず立ち止まった。次の一歩を踏み出すことができない。
「旦那様、どうされました?」
ジェームズが怪訝そうに声をかける。
「あ、いや、なんでもない」
私はわざと、昨日とは違う木の間を抜けて森の外へ踏み出した。ほんの数メートルであっても、昨日と状況を変えたかったのだ。
一歩、二歩、森の外へ出た。
次の瞬間、轟音がとどろいた。私は腹部に焼けるような激痛を感じ、衝撃であおむけに倒れのだった。
「残念だったわね。隠し財産では、運命は変えられなかった」
気がつくと、あの女が私の顔を上からのぞき込んでいた。甘い香りが漂う。女は相変わらず美しかった。それに、こころなしか妖艶さが増している気がした。髪が、肩にかかる長さまで伸びている。ローブの色が、黒からくすんだ赤に変わっていた。
「今日の運命は、今日の行動では変えられないわ。ジャケットの色や、通り道を変えても無駄。昨日を変えないといけないの」
「もう一度、チャンスを貰えないか?」
私の頼みに、女は笑みを返した。
「もちろん。何度でもやり直すといいわ。次は、なにを消しましょうか?」
「裏の金がだめなら、表の金だ。当家が所有する屋敷以外の資産を消してくれ」
女は頷くと、ゆっくりと顔を近づけてくる。私はふたたび、女の甘い体臭に包まれた。唇が触れ合う。
私の意識は、暗い闇の底へと吸い込まれていった。
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