くちづけする女(カクヨムコン版)
旗尾 鉄
第1話 謎の女
なぜ、こんなことになったのか。
私の精神と記憶が正常ならば、私はいま、あおむけに倒れているはずだ。場所は、領地の森から数歩でたところである。
腹部には一発の銃弾が食い込み、私の命を奪おうとしている。愛用のグレーのハンティングジャケットも血にまみれ、もう使い物にはなるまい。
……ジェームズはどうしただろう。今朝、私は使用人のジェームズと共に、狩猟に出かけたのだった。そうして半日を愉快に過ごし、帰ろうと森を出たところで、突然、何者かに撃たれた。
犯人の姿は見えなかった。周到に待ち伏せされていたのだ。
ジェームズは忠実な男だから、助けを呼びに行ったのかもしれない。
だが手遅れだ。手足の感覚がなくなってきた。もうあまり痛みも感じない。私はなすすべなく、ただ青空を見上げた。
父が他界してから七年。私は領主として、この愛すべき領地を守ってきた。神ならぬ身ゆえ完ぺきとはいえないが、領民たちにそう大きな苦労はかけなかったはずだ。それがこの仕打ちとは。
悪人が非業の最期を遂げるのはわかる。だが私は、自分が他人に殺されなければならないほどの大悪人とは思えない。もうしばらく、貴族としての生活を楽しむ権利はあるはずだ。理不尽きわまる。承服しかねる。どうにかして、この運命から逃れる方法はないものか。
眼がかすんできた。青空が、にじんだようにぼやけていく。もう声も出せない。誰でもいい、助けてくれ……。頭では死を拒絶しながらも、瞼が閉じていくのに逆らうことができなかった。
そのときだ。ふっと、体が軽くなった気がした。永遠に閉じられたはずの瞼が、ふたたびゆっくりと開く。
私の視界の中には、青空の代わりに女の顔があった。
美しい女だった。二十代半ばから後半といったところか。色白のきめの細かい肌に、切れ長の眼。細面の輪郭に、濡れたような唇が艶めかしい。黒い髪を、肩にかからない程度の長さできれいに切りそろえている。
もっとも特徴的なのが、瞳の色だった。ルビーのような深紅である。吸い込まれるように魅惑的だ。こんな瞳をした者をこれまで見たことがない。女から醸し出されるエキゾチックな雰囲気を考え合わせると、彼女は異国人なのかもしれない。
女は、微笑を浮かべながら私の顔を眺めていた。飾り気のない、黒いローブに身を包んでいる。女が呼吸をするたびに、豊満な胸がかすかに揺れる。倒れたまま動けない私には、女の下半身は見えなかった。
「死の進行を一時停止しました。話せる程度には楽になったでしょう?」
女がはじめて口をきいた。なにかを誘うような、不思議な声色だった。
「あ……」
女に言われて、私は自分が発音できる状態であることに気づいた。呼吸も楽になっている。
「まずは、貴方の脳がまだ正常かどうか確かめましょうか。お名前は?」
「セバスチャン。セバスチャン・フェルゼル子爵だ」
「お歳は?」
「三十五」
「家族はいるの?」
「妻がいる。クリスティーヌ、最愛の妻だ」
私はなぜか、女の質問に素直に答えていた。逆らえないなにかを感じていたのである。
女は満足そうに頷いた。香水だろうか、女が体を動かすたびに、
「脳は大丈夫のようね。では本題に入りましょう」
「待て。おまえは誰だ? 名前は? 神か、悪魔か?」
私の質問を、女は軽く受け流した。
「ふふふ。わたしの名前、わたしの正体。そんなことはどうでもいいことだわ。さっき望んだでしょう、誰でもいいから助けてくれと」
女は続けた。
「貴方の命はあと五分か十分で尽きる。けれど、わたしなら生き延びるチャンスを与えることができるわ」
「どういうことだ?」
「因果律という言葉をご存知かしら? 今日こうして貴方が死ぬのは、過去の積み重ねの結果だということよ。逆に言えば、過去を変えれば今日の結果を変えられる可能性がある。わたしならそれができるのよ」
この女は頭がおかしいか、人知を超えた『なにか』だ。そして私には、後者であることに賭けるしか助かる道はない。
「今日の貴方を構成する要素、地位や家族や財産、そういったことがらの中から、どれかを消してあげる。そのうえで今日の始まり、教会の朝の鐘が鳴る時刻へと送り返してあげましょう。どの要素が絡んでいるかわからないから、試すしかないのよ。成功すれば、死の運命を回避できる。失敗したら、貴方はふたたび死の淵に立たされる。その時は、また会いましょう。ただし、成功失敗にかかわらず、一度消した要素は元には戻せない。どう?」
ばかばかしい世迷言だ。だがもうすぐ死ぬ身、最期にお遊びに付き合ってもいい。私は少し考えてから言った。
「わが家には、代々蓄えてきた隠し財産がある。非合法な手段で得たものもあるから、業が深いだろう。それを消してくれ」
金で命が助かるなら安いものだ。女の言葉など信じていないはずなのに、なぜかそんな計算をしている自分に驚く。女は私の考えを見透かしたかのように、意味深な笑みを浮かべた。
「わかったわ。では始めましょう」
女は私に覆いかぶさるように、ゆっくりと顔を近づけてきた。顔と顔の距離が近づくにつれ、女の甘い、むせるような香りが強くなる。
唇と唇が軽く触れあった。
そしてその瞬間、私の意識は暗い闇の底へと吸い込まれていった。
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