第3章「嫉妬」
「木崎先生っ! 20時からの鈴木さん、今日レッスンお休みするって連絡あったから、ちょっと店頭の方お願いできますか?」
橋本の指示を受けた真音は、ため息を吐きながら、重い足取りで2番レッスン室を後にした。2メートル程の通路を挟み、両脇に5室ずつ立ち並ぶレッスン室のドアには奥から順に1から10までの部屋番号が記されており、フルートやバイオリンの音色が真音の耳に飛び込んできた。音のシャワーを浴びながらゆっくりと歩みを進め、店頭に最も近い10番のレッスン室の前まで来たところで、真音はハッとして足を止めた。
(瀬尾幸人だ!)
その演奏はあまりにもたどたどしく、彼が『愛の喜び』の旋律を奏でているということに気付くのに数秒の時間を要した。
「彼でしょう? 楽器経験ゼロで『愛の喜び』にチャレンジされている生徒さんって」
真音の背後から甲高い声が聴こえてきた。ピアノ講師の
「ええ、そうです。すみません、店長に店頭に出るように言われているので……」
早々に切り上げようと試みるも、彼女は強引に話を続ける。
「大丈夫よ! 店頭
「ええ……勿論、私も反対しました。でも、彼の意志が固くて……生徒さんが弾きたい曲を弾く手助けをさせて頂くのが私の仕事ですから……それに、彼、飲み込みが早いですし……」
「へえー、そうなんだあ。慧都音大卒の木崎先生がそう仰るのなら、彼、素質があるのかもしれないわねえ! ねえ、ところで、先生、毎年 “葉山楽器” で行われているコンクールについてはご存知よね?」
「ええ……」
「今回、私の受け持ちの生徒さんが1人入賞したの!」
「それは、おめでとうございます!」
「来月、受賞者たちのガラコンサートが開催されるんだけどね、今年はなんと! ノリに乗ってるピアニストがゲスト出演するらしいのよ!」
そう言いながら、伊藤は真音にパンフレットを手渡した。
『葉山楽器 ガラ・コンサート2023』と記載されたパンフレットに目を落とすと、そこには、華やかな深紅のドレスを身に纏った “あの女“ が、艶やかな笑みを浮かべていた。
「“
普段感情を表に出さない真音の顔色が変わったのを、伊藤は好奇に満ちた様子で眺めている。
「木崎先生―! レジお願いしますよー!」
タイミング良く声を掛けてきた橋本に、真音は、入社以来初めて心から感謝した。
「すみません……失礼いたします」
真音は、伊藤に、慇懃に頭を下げると、そそくさと店頭に向かい、伊藤から手渡されたパンフレットをクシャクシャに丸めて、ゴミ箱に捨てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます