第3章「嫉妬」

 瀬尾幸人せのお ゆきとが、真音のレッスンに通うようになってから1カ月が過ぎた。瀬尾は、週に1回の真音のレッスンの日以外にも、毎日、仕事帰りに、葉山楽器に立ち寄り練習室で必死に練習に励んでいる。


「木崎先生っ! 20時からの鈴木さん、今日レッスンお休みするって連絡あったから、ちょっと店頭の方お願いできますか?」


 橋本の指示を受けた真音は、ため息を吐きながら、重い足取りで2番レッスン室を後にした。2メートル程の通路を挟み、両脇に5室ずつ立ち並ぶレッスン室のドアには奥から順に1から10までの部屋番号が記されており、フルートやバイオリンの音色が真音の耳に飛び込んできた。音のシャワーを浴びながらゆっくりと歩みを進め、店頭に最も近い10番のレッスン室の前まで来たところで、真音はハッとして足を止めた。


(瀬尾幸人だ!)


 その演奏はあまりにもたどたどしく、彼が『愛の喜び』の旋律を奏でているということに気付くのに数秒の時間を要した。


「彼でしょう? 楽器経験ゼロで『愛の喜び』にチャレンジされている生徒さんって」


 真音の背後から甲高い声が聴こえてきた。ピアノ講師の伊藤由紀子いとう ゆきこだ。彼女は真音より10歳年上で、“葉山楽器 CREAショッピングモール店” のピアノ講師は彼女と真音の2人が担っている。“花澤音大はなざわおんだい” 卒の彼女は、名門 “慧都音大“卒の真音の存在を疎ましく思っているようで、何かにつけて、真音に絡んでくる。


「ええ、そうです。すみません、店長に店頭に出るように言われているので……」


 早々に切り上げようと試みるも、彼女は強引に話を続ける。


「大丈夫よ! 店頭いてるじゃない? 橋本くんに何か言われたら私に言って! そんなことより……あなた、よく、彼にあの曲OK出したわね? ピアノ初心者が挑戦するには無謀な曲よ?」


「ええ……勿論、私も反対しました。でも、彼の意志が固くて……生徒さんが弾きたい曲を弾く手助けをさせて頂くのが私の仕事ですから……それに、彼、飲み込みが早いですし……」


「へえー、そうなんだあ。慧都音大卒の木崎先生がそう仰るのなら、彼、素質があるのかもしれないわねえ! ねえ、ところで、先生、毎年 “葉山楽器” で行われているコンクールについてはご存知よね?」


「ええ……」


「今回、私の受け持ちの生徒さんが1人入賞したの!」


「それは、おめでとうございます!」


「来月、受賞者たちのガラコンサートが開催されるんだけどね、今年はなんと! ノリに乗ってるピアニストがゲスト出演するらしいのよ!」


 そう言いながら、伊藤は真音にパンフレットを手渡した。


『葉山楽器 ガラ・コンサート2023』と記載されたパンフレットに目を落とすと、そこには、華やかな深紅のドレスを身に纏った “あの女“ が、艶やかな笑みを浮かべていた。


「“高野美由紀たかの みゆき” さんって、慧都音大卒で、木崎先生と同い年なんですってね! もしかしたら、木崎先生、お知り合いかしら? なんて思いまして」


 普段感情を表に出さない真音の顔色が変わったのを、伊藤は好奇に満ちた様子で眺めている。


「木崎先生―! レジお願いしますよー!」


 タイミング良く声を掛けてきた橋本に、真音は、入社以来初めて心から感謝した。


「すみません……失礼いたします」


 真音は、伊藤に、慇懃に頭を下げると、そそくさと店頭に向かい、伊藤から手渡されたパンフレットをクシャクシャに丸めて、ゴミ箱に捨てた。

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