第2章「愛の喜び」ー2

 瀬尾幸人の色素の薄い琥珀色の瞳から、大粒の雨のような涙が止めどなく溢れていたからだ。


「瀬尾さん、どうされたのですか?」


 真音は、ポケットティッシュを彼に渡しながら尋ねた。


「す……すびばせん……三十路間近の大の男が大泣きしていたら、ドン引きしますよね?」


 瀬尾は、真音から受け取ったポケットティッシュで思い切り鼻をかんだ。色白の彼の鼻はまるでトナカイのように紅く染まった。


「何か、私の言動が瀬尾さんの気分を害してしまったのでしょうか?」


「いえ……違うんです……木崎先生の演奏は本当に素晴らしくて、完璧で……先生が頻りに他の曲を俺に薦めるのも納得の難しい曲だということは充分理解しました……正直、めっちゃ悔しいです。でも……俺が泣いた理由はそれではなくて……」


 言葉に出して良いものかどうか逡巡しゅんじゅんしている彼の様子を見兼ねた真音は、彼に次の言葉を促した。


「それでは、どういった理由で?」


「先生のピアノ……なんて言うか……すごく……苦しそうなんです……悲しくて悲しくてどうしようもないのに、泣きたいのを必死に堪えて、無理に笑顔を拵えているような……」


 図星だった。


――いい? ピアニストは “表現者” じゃない! “再現者” なの! 身勝手な解釈で、大仰なパフォーマンスをしたり、楽譜の指示を無視した演奏をすることは、偉大なる作曲家たちへの冒涜で恥ずべきものだと思いなさい! 全ての答えは楽譜に書いてあるの! 一音たりとも間違えたり疎かにすることは許しません! 貴方は“楽譜の忠実なしもべ“ と成りなさい! ――


 何百回、何千回と繰り返し繰り返し言われてきた母の言葉は、真音を雁字搦めにした。


 ピアノから “自由“ を奪われた真音は、自然と、日常生活においても感情を表に出すことができなくなっていた。


 だから、“あの女“ にコンクールで負けた時も、”あの女“ に恋人を奪われた時も、真音は、感情を抑圧し封じ込めた。閉じ込められた負の感情は、あの日からずっと、真音の心の中で燻り続け、いつ導火線に引火し爆発してもおかしくない。


「あの……無謀なのは百も承知でお願いします! 先生! 俺に『愛の喜び』を教えてください! どうか、お願いします!」


「わかりました……私は、瀬尾さんが、この曲を弾くお手伝いを全力でさせて頂きます。でも、弾けるようになるかどうかは、瀬尾さんの頑張り次第ですよ?」


「はい、わかってます! ありがとうございます! 先生、よろしくお願いします!」


(“愛の力” で、奇跡ミラクルを起こすことができるかしらね?)


 真音の演奏を 「苦しそう」 だと言って涙を流した彼に対し、一歩誤れば憎しみともなり得るような複雑な好奇心が、真音の心の中で芽生え始めていた。

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