第2章「愛の喜び」ー1

「先生!  俺、この曲をどうしても弾きたいんです!」


 瀬尾幸人せのお ゆきとが、バッグから取り出し、真音の前に差し出した楽譜は、フリッツ・クライスラー作、セルゲイ・ラフマニノフ編曲演奏会用ピアノ独奏版の『愛の喜び』だった。


(またか……)


 真音は、心の中で呆れたように呟いた。


「瀬尾さん、これまで、ピアノや他の楽器をされた経験はお有りですか?」


「いえ! まったくありません! ゼロです!」


 梅雨空をも吹き飛ばすような爽やかな返事だった。


 瀬尾幸人せのお ゆきとは、真音よりも3歳年上の29歳だったが、ぱっと見、20代前半くらいに見えた。ナチュラルな栗色のマッシュヘアに緩めのウェーブがかかった髪が彼の少年のような顔立ちとマッチし、その話し方もまた、実年齢よりも少々幼い印象を与えた。


「この『愛の喜び』という曲は、クライスラーが、ピアノとヴァイオリンのための小作品として作曲した曲を、ラフマニノフがピアノソロ用に編曲した曲です。はっきり言って、上級者向けでとても難しい曲です。この曲に拘らなくとも、他に、もっと初心者向けで素敵な曲はたくさんありますよ! そうした曲を何曲か弾き熟せるようになってから、この曲に挑んでみてはいかがでしょうか?」


 真音は、彼のプライドを傷付けないように、言葉を選んで説得を試みた。


「先生! 俺! どうしても、この曲が弾きたいんです! この曲じゃないとダメなんです!」


「瀬尾さん、弾いてはいけないと言っているわけではないのですよ? どうしてそこまでこの曲に拘るのですか?」


「俺、高校時代から付き合ってて、今同棲している彼女の誕生日にプロポーズしようと思っているんです! 2ヶ月後の8月21日が彼女の30歳の誕生日なんです! その日に、彼女が好きなこの曲をプレゼントしたいんです!」


 真音は、あの女が、“全日本学生ピアニストコンクール” のガラコンサートで弾いた『愛の喜び』の演奏を思い出し、吐き気を催した。


 深紅のサテン地にゴージャスな薔薇の花の刺繍が惜しみなく施されたロングドレスを身に纏った彼女の演奏は、華麗で艶っぽく、自信に満ち溢れていた。


「わかりました。そこまで仰るのなら、今から私が、ご参考までにこの曲を演奏させて頂きますので、それをお聴きになったうえで、瀬尾さんがチャレンジされるかどうかお決めください」


 真音は、ピアノの前に座っていた瀬尾に、真音が座っていた背付き椅子の方へ座るよう促すと、四つ足の椅子の高さを調整し、姿勢を正し、ひとつ深呼吸をすると、間髪入れずに演奏を始めた。その華奢な体型に似つかわしくない大きな手が、モノクロの鍵盤の上を、めくるめく速さで舞い踊り、西洋の豪華絢爛な舞踏会のような優雅さをもって音を奏でた。高度な技術を要する難曲を、顔色ひとつ変えずに弾き終えた真音は、瀬尾の方を振り返ってギョッとした。

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