第3話

 気を失ってしまっていたようだ。


 気がつくと、私は病室のような所にいた。

「あ。気が付きましたか。大丈夫ですか?」

そこにいた男性が、優しい声で聞いてくる。どこかで見たような気もする。

 頭が痛い。ガンガンする。でも、大丈夫だと告げた。

「あの、ここは?」

戸惑う私に、彼は笑って答える。

「保健室ですよ。エレメンタリースクールの」

「保健室……エレメンタリースクールの……」

「覚えていませんか? あなた、うちのスクールの前で倒れていたんです」

「スクールの前で……?」

何も覚えていない。


「部屋に……自分の家に戻ります」

そう言って、私は立ち上がり、ふらふらとよろけた。

「大丈夫ですか? お家が遠ければ、車で送りますよ?」

「いえ、隣のビルなので……一人で帰れます。助けて下さってありがとうございました」

「隣のビル……。そうでしたか。では、お気をつけて。ゆっくりと休まれることをおすすめしますよ。」

「ありがとうございました。」


 私はスクールをあとにして、ふらふらとアパートメントに戻り、エレベーターのボタンを押し、降りてくるのを待った。

 すると、さっきの男性が私を追いかけてくる。

「なんでしょう?」

まだ寝ぼけたような頭のまま彼に問いかけた。

「忘れ物ですよ」

優しく微笑む彼の手には私の靴。

 私は靴下のまま帰ってきたようだ。全然気付かなかった。

「すみません。ありがとうございました」

靴を受け取る。


 靴を履いた途端、消えていた記憶が一気に蘇った。頭痛と目眩と吐き気がしてふらふらとそこに座り込む。

 ずっと俯いたままなので、私の記憶が戻ったことを気付かれてはないと思うが……。


 何だ? 何が起こっている?

 管理人室はどうなっている?

 ……隣にいる男は誰だ?


 私を助けた経緯を偽った、この男は何者だ?


 一瞬にして今の状況を把握したが、今すぐ逃げる方法が見つからない。

 私は、半覚醒のまま動いているふりをすることに決めた。


「ごめんなさい。倒れた時に頭を打ったのかしら。目眩と、吐き気と、頭痛でふらふらしてしまって。」

そう言って誤魔化した。

「部屋に戻って休みます。ありがとうございました。」

そう告げてエレベーターの扉を閉めかけた時、ガッと男が扉を押さえた。

「やっぱり部屋まで送ります。心配だ。」

私は震える手で14階を押した。勿論、扉を閉じる前に13階を押してある。

「あれ? なんでですか?」

「ま、間違えてしまって……」

うつむく私のことを彼は疑っていないだろうか。


「まだ、効いてるんですかね……。もう覚めてもおかしくないんだけどな……」

エレベーターが動き出すと、男が独り言のように呟いた。

 背筋が凍った。

「最初は下の階からにしてたんですよね。そしたら声が上の階に聞こえることもあるみたいでね、だから上の階からにしたんです、途中からね。」

ブツブツと男は呟き続ける。私を試すように。私の反応を観察しているのだ、きっと。

「家族がいるところはねえ、みんな眠らせるんですよ先にね。叫ばれたら厄介でしょ?」

男は愉快そうに続ける。

 気付かない気付かない気付かない、私は、気付かない。自己暗示をかける。 


 ふと腕に何か当たった。ポケットの中。

「あ……鍵。」

鍵、と親友から貰った、お守りのマスコット。

「よかった。鍵は忘れてなかったんですね。そっちは?」

「親友がプレゼントしてくれたマスコットです。」

ボーッと答える私に、

「そうですか。可愛いですね。」

男が笑った。

 その可愛いキャラクターを見て嬉しそうな私のことを見て、彼は私がまだ半覚醒状態だと信じたようだった。 


 エレベーターは13階に着いて一度開いて、再度閉まった。14階に着いて、フラフラしながら男と一緒に降りる。

 部屋番号を告げ、男に鍵を渡し、ゆっくり行くので開けておいてくれるようにたのんだ。

 ふらついた拍子に男に気付かれぬよう13階のボタンを押し、エレベーターの閉まり際に、中にお守りのマスコットを落とした。

「あ! お守り!」

私は、エレベーターが閉まるギリギリのところで滑り込み、もう一度13階に降りた。エレベーターの窓から14階の床が見えた時、廊下の向こうの方に血まみれの足が見えた。男は今度は上の階から殺していっていると言っていた。13階ももうダメかもしれない。 

 自分の部屋を気にしている場合ではなかった。あんなのろい、しかも中が丸見えのエレベーターに乗って下まで降りたら、階段で先回りされて殺されてしまう。


 私は、エレベーターを降りると、すぐ隣のドアから出られる非常階段は使わず、逆方向の非常階段へと走った。

 エレベーターが何階で止まっているか、他の階からもわかってしまうので、全部の階のボタンを押しておいた。自分でも理由はわからない。そうしておいた方がいいような気がしてそうしたのだ。勿論、足音を消すために、再度靴を脱いで、靴下で走った。


 数ヶ所のドアが開いて、人が倒れている。廊下も血の海だったが、そんなことに怯んでいる余裕はなかった。ただ、まだ血で濡れている箇所を通ると足が滑りそうで、できるだけ踏まないように気をつけながら走った。


 下にばかり気を取られていた。


 非常階段を降りようとして、心臓が止まる。

 男が、階段の数段下にいて、笑っていた。

「嘘つきは嫌いだなぁ。」

助けて助けて助けて助けて誰か助けて……

叫ぼうとしても、もう声が出なかった。

男はナイフを取り出して、怯えて動けなくなった私を愉快そうに見ている。

「みんなね、そんな目をしてたよ。」

1段1段近づいてくる。

 逃げなければと思っているのに足が全く動かない。

「人って、本物の恐怖を感じた時には、意外と声も出ない逃げることもできないみたいだね。」

何でここにいるの? どうしてわかったの?


 私の心を読んだかのように男は不気味に笑った。

「キミ、13階のボタン押したんでしょ。あのエレベーターは遅いから、下まで逃げるには階段の方が早いんだよね?」

じりじりと距離を縮めてくる。

「それで13階で降りて、反対側の非常階段から逃げようとしたんだ。エレベーター側の階段は僕が追いかけてくるかもしれないし。」

愉快で仕方ないという風に笑う。

「賢かったのはそこまでだったね。僕は、向こうの階段を12階まで降りて、こっちの階段まで走ってきたんだ。気付かなかったみたいだけど。」

「嫌! 嫌! 嫌! やめて! こないで!」

辛うじて出した声は嗄れて消える。


 男がもう一歩近づいてきた時、私の手から持っていた靴が落ちた。

 カン、カン、カン、カン……

 手すりに当たって高い音を立て階段の下の方まで。その音に自分で驚いて、座り込んだ。ぎゅっと小さく硬く。

 また男が笑う。

「なるほど。一度目はこうやって靴を脱いで音を消して逃げたんだね。だから君は前の時も靴を履いてなかった。」

やめてやめてやめてやめて来ないでお願い!!

「てっきり文化の違いかと思ったよ、ミス ジャパニーズ。」


 なぜ? なぜ日本人だと知ってるの?

 反射的に顔を上げると、目の前に男の顔があった。

「やっぱり日本人は嘘が下手だ。ふふ。」

嬉しそうに言うと、手に持っていたナイフを振り上げた。


「ジャアネ サヨウナラ」


 殺人鬼の機械的な日本語を聞きながら、一瞬で意識が何処かへ行ってしまった。

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