第2話

「また通り魔らしいよ。いやだねぇ。いつまで続くんだろう。警察は何してんだい。早く取っ捕まえてくれないと、落ち落ち買い物にも行けやしない。」

アパートメントを管理している老婦人が言う。


 出張中に預かって貰っていた配達物を管理人室に受け取りに行った時、「聞いたかい?」で始まる彼女の噂話はいつものことだった。

 観光地からは遠く、有名でもないこの街に日本人がいること自体が珍しいようで、テレビ好きで日本贔屓の彼女に、私は気に入られているようだった。顔を見れば、沢山の噂話をして聞かせてくれた。大概が芸能人がどうのこうの、近所の人の揉め事、テレビで観た事故や事件で、私には殆ど関係もないような話で、私は笑って聞き流していた。


 が、今回ばかりは話が違う。「対岸の火事」といったスタンスの内容ではなくなっていた。


「また? これで何件目?」

「あんたニュース見てなかったのかい。4件目。前のやつからまだ2日しか経ってないのにさ」

「近くなの?」

「遠くはないね、車だとすぐだよ」

そうなんだ……この辺は子供たちも多い地域だから、大人がちゃんと見守ってないと……と言いかけて止めた。

 また近辺の治安が悪化しつつあり、この街から離れていく若い家族も増え、子供の人数も目に見えて減ってきていた。それは、長くこの地に住む者にとって、寂しく悲しいことに違いない。

「物騒なことになってるから、気を付けようね、お互いね」

そう言って、私は、預かってもらっていた配達物を受け取ると自分の部屋に帰った。


「通り魔」か。

何の目的で人を殺傷して歩くのだろう。何がしたいのだろう? あるいは……人を傷つけたり殺すことそのものが目的? 人を殺したいだけの無差別殺人……?

 「殺人鬼?」自分の人生に於いて全くリアリティのなかった言葉が、近くでリアルになっている。

 言葉にしてしまって、身震いがした。


 隣のエレメンタリースクールでも、登校する生徒が激減しているらしかった。 

 当たり前の対応だろう。こんな物騒な事件が近くで起きているのだ。子供の安全が最優先だと考えるのが普通だと思った。

 しかし、子供を登校させている親も少なからずいるらしい。通り魔に会う偶然などそうあるものかと、「高を括っている」のだろうか? 或いは、親の仕事優先の家庭では、仕方ないのかもしれない。


 そんなことを思いながら遅い昼食を摂る。

配達物は殆どがダイレクトメール。それでも預かって貰っている間は個人情報は守って貰える。……多分。


 パンの端が硬くパサついたサンドイッチを頬張りながらコーヒーに手をかけた時、階下で悲鳴のような声が小さく聞こえた。

 冷やっとしたものが身体を突き抜ける。

 いやいや、さっきの管理人との話で、過敏になっているだけだ、きっと。


 階下の住人はホラー映画好きらしい。家で仕事をしている人らしく、昼間でも時々物音がすることはあった。そして、夜、こちらが寝る頃になるとホラー映画を観始めるようで、しょっちゅう悲鳴を上げている。ホラー映画の中の音なのかも知れない。

「まさかだわ。」

笑いながらコーヒーを一口。届いていた請求書の封を切った。

 このビルは意外にも、しっかりと防音対策がされていて、隣の部屋や上下の部屋の生活音はあまり聞こえてこない。それでも、夜中に聞こえる階下の住人の悲鳴は、幾ら小さい音とは言え正直迷惑だなぁと思い、そんな時は、布団をすっぽり被って寝ていた。


 ……夜中に聞こえる悲鳴……?

 自分の食べている物を見て、思考が一瞬止まる。

 ……平日の昼間っから、ホラー映画?


 階下でまた小さな悲鳴が聞こえ、今度はガタガタッという何かが倒れたような音がした。

 リアルな音に聞こえた。

「逃げろ!」自分の本能がそう叫ぶ。

 エレベーターに向って走りながら、違う!! と思い、逆方向の非常階段へと走る。足音を殺して走るのは難しかったが、なんとか、反対側の非常階段に辿り着いた。


 そうっと階下の廊下を覗く。

 目の前の部屋のドアが開いていて、そこに血まみれの女性の上半身が横たわっているのが目に入った。咄嗟に自分が着ていた服の袖で自分の口を強く押さえ、叫びそうになるのを必死に堪えた。

 エレベーターに向って歩いていく背の高い男の背中が遠くに見えたから。


 廊下を見渡すと、所々でドアが開いている部屋があって、やはり血まみれで動かなくなった人たちが倒れている。辺りは血の海だ。


 そんな……まさかでしょ? まさかここにいるの? 「殺人鬼」が? 何なの? この状況は何なの?


 考えている余裕はなかった。

 私は、そのまま非常階段で1階へと全力で走った。音を消すために、靴を脱いで、靴下のままで。

 心臓の恐ろしく速く大きな鼓動が全身に響く。血が沸騰しているようだ。


 急いで管理人室に入ると、管理人は既に息絶えていた。

 私はそこで初めて悲鳴を上げた。


 次の瞬間、入口のドアが開いた。

 心臓が凍りつきそうになった。


「どうしました?」

上下黒いジョギングスーツの男の人が驚いた顔で部屋の中を覗き込み、私の顔を見て言った。

「何があったんですか?! あっ、私は隣のスクールの教師です」

助かった……。ホッとして、腰が抜けたように私はその場に崩れ込んだ。

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