重圧

 イリヤは前世でも今世でも研究者であり学者だ。イリヤは自らの研究内容を伝えるのは上手だが、この研究結果がどう金になるのかをプレゼンする事が上手く出来ない。

 素晴らしい研究で科学技術の発展に間違いなく寄与すると確信している彼女は、予算を出している所属機関の採算が取れるかどうかまで考えられない。

 従って、自分が必要な金額を素直に口にする。どのように伝えれば予算が下りやすいかというところまで気が回らないのだ。


「十億ドル……」


 イリヤはこれからの十年間で掛かるであろうAI開発の予算が十億ドルであると答えたつもりだったが、伊吹には年間予算として受け取られた。


「年間九百億円はどう考えても無理でしょ……」


 声色が変わった伊吹の呟きを受け、不思議そうな表情を浮かべるイリヤ。英語でメアリーに予算内容を説明する事で、年間九百億円ではなく十年間で九百億円であると訂正されたが、伊吹の雰囲気は変わらない。

 ちなみに、現在の為替レートは一ドル九十円だ。


「どっちにしてもAI開発に九百億円必要だって事だよな。俺が宮坂家みやさかけに働きかけて予算を確保出来たとしても、開発に失敗したら九百億円がパーに……」


 青い顔でぶつぶつと独り言を話す伊吹を、周りの女性達が心配そうに見つめる。いつもの伊吹なら楽しそうに詳しい話を聞くか、周りが思いもしなかったような革新的な案を出して皆を驚かしているのに。

 ドット絵のお面を付けている為表情は見えないが、俯いていて肩も震えているのが分かる。


「伊吹様?」

「如何されました?」


 美哉みや橘香きっかが伊吹の肩に触れると、伊吹が顔を上げて二人に縋り付く。


「美哉、橘香、AI開発は絶対に必要だ。けど九百億円掛けて絶対に開発出来るとは限らない。俺があの人を信用して宮坂家と共同で金を出したとして、もし失敗したらどうなる? 失敗しなくとも、十年間で開発し切れなかったら? 追加でもう九百億か? 成果は出るのか、利益は、その技術は何に使える? 俺がAI開発に資金を投入すると判断した結果、二千億円近い損失が出たら、俺では責任が取れない! どうやって損失分を補填する!? 一体何回分精液を採取すれば良いんだ!?」


 頭を抱えて叫ぶ伊吹を見て、皆がようやく異変に気付く。取り乱している伊吹を美哉と橘香が抱き締めて周りの目から隠す。智枝がこの場を一旦お開きにしてほしいと呼びかける。

 マチルダは伊吹へと駆け寄ろうとしたが、藍子あいこからメアリーと二人でイリヤからさらに詳しい話を聞くように頼まれた為、踏みとどまった。

 メアリーは藍子の指示を受け、与えられている自宅へ招くと伝え、イリヤを伴って大会議室から退出した。


 美哉によってドット絵のお面を外された伊吹は全身から汗が噴き出しており、顔は真っ青で、眉間に皺を寄せて考え込んでいる様子だった。


「伊吹様……」

「落ち着いて……」


 伊吹は右手の親指の爪を噛みながら足で貧乏ゆすりをしており、目線も落ち着きなく彷徨っている。

 美哉も橘香も、こんなに狼狽えている伊吹を見た事がなく、一人称を俺と話すのも聞いた事がなかった。伊吹を抱き締め、背中を撫でながら何とか落ち着かせようとしている。

 藍子は美哉と橘香の行動を見つめながら、今の伊吹に対して自分が出来る事はないかと考え、少し離れた場所でスマートフォンを取り出した。

 智枝と紫乃しのみどり琥珀こはくはいつでも動けるように壁際で控えている。


「九百億だぞ、それも俺では全く分からんジャンルの話、開発が上手く行ってるのかどうかの判断も出来ん! 失敗したら、俺は、俺達は……」


 今まで伊吹は、自分がある程度仕組みを理解出来ている物事に対して投資を進めて来た。アバターやバイノーラルマイクを使ったASMR、VOCALOIDボーカロイドVOICEROIDボイスロイドなどにはある程度馴染みがあり、絶対に成功するはずだという確信があった。

 何より投資の原資は自分が出演するYourTunesユアチューンズのチャンネルの収益で賄える範囲だった。失敗したとしてもそう痛くない。

 投資に失敗して損失が出たとしても、自分の稼ぎで補填が出来るので、路頭に迷う人間もいない。事業が上手く行かず、YourTunesからの収益がなくなったとしても、田舎の実家に引き返せば良い。男性保護費の五千万円があれば苦労する事はないと思っていたのだ。


 しかし、AI開発に関しては桁が違い過ぎた。十年間で九百億円と聞いて、どれだけのリスクを背負い、どれだけの人生を抱える事になるのか。躓いたら自分だけでなく多くの人間が不幸になる事に恐れしまった。

 そしてAI開発だけでなく、今まで自分がシミュレーションゲームを楽しんでいるような感覚で金を使い、人を雇い、危ういバランスの上に立っていたという事に気付かされてしまった。

 たまたま結果が良いだけで、一歩間違っていればどん底に突き落とされていたかも知れないと、自覚してしまった。


 自分は三ノ宮さんのみや伊吹いぶきというキャラではなく、一人の生きた人間なのだ。失敗したらそこで終わり、セーブポイントからやり直すなどという事は出来ない。難易度設定がイージーになっている訳でもない。

 急に湧き出て来る現実感。自分だけなら良い。二度目の人生だ。だがこの二人は違う。美哉と橘香を道連れには出来ない。したくない。


「二人を連れて実家に戻るか? 今さら、藍子も燈子とうこも置き去りにして? いや、こんな俺が八人の女性と結婚して良いのか? まとめて全員幸せにするだって? 俺が? 本当に出来るのかそんな事が……」


 何と自分は傲慢で身勝手で勘違いした恥ずかしい厨二病患者だったのか。冷や汗が止まらなくなる伊吹。


「どうしよう、どうしたらいい? みぃねぇ、きぃねぇ、俺もうどうしたら良いか分かんねぇよ……」


 ガタガタと奥歯を鳴らし、美哉と橘香にしがみつく。

 美哉と橘香は互いに顔を見合わせ、小声でどうするべきか話し合う。伊吹が帰ると言えば、この二人は何の躊躇いもなく伊吹を実家の屋敷へ連れて帰るつもりだ。

 藍子達宮坂家みやさかけの人間に緊張が走る。伊吹がVividColorsヴィヴィッドカラーズの経営から手を引くのはまだ良い。Vtunerブイチューナーを辞めるのも許容は出来る。

 が、藍子と燈子とうことの婚約破棄だけは絶対に阻止しなければならない。すでに政財界には三ノ宮家さんのみやけとの婚約が発表されている。万が一伊吹が結婚を取りやめたいと言い出した場合、藍子と燈子ではなく宮坂家全体の信用問題に発展する。

 ここぞとばかりに攻撃を仕掛けてくる勢力もあるだろう。宮坂家の代わりにと三ノ宮家へ近付く勢力も出て来るかも知れない。

 その場合、伊吹の身の安全が保障されるかは分からない。しかし、宮坂家の人間はそのような説明をしても、伊吹が素直に受け取ってくれるかどうか。取り乱している

伊吹がどのような反応を示すか予想が出来ない。

 藍子は伊吹へ手を伸ばすも、何と言えば良いか分からないまま時が流れる。

 子供のように泣きじゃくり、幼馴染二人にしがみつく伊吹。立っていられず、今はもう床にへたり込んでしまっている。




「おやおや、やっと可愛らしい姿を見せてくれたねぇ」


 そんな中、藍子からの連絡を受けた福乃ふくのが大会議室へ到着した。



★★★ ★★★ ★★★



ここまでお読み頂きありがとうございます。


祝九十万PV突破!

祝フォロワー数三千人突破!

感謝!!!


続きを書くのに夢中で記念SSが滞っておりますが、

感謝の気持ちはございますのでこちらでご挨拶させて頂きます。

今後ともよろしくお願いします。

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