執事教育
伊吹は執事として自分の元へやって来た、智枝に対してちゃんと自分の気持ちを伝えようと思っている。
「自分の中にあるモヤモヤをそのままにしておくんじゃなく、早いうちにぶつけておいた方が良いと思ったんだ。
ゆっくり話がしたいから、ソファーに座ってくれない?」
伊吹は智枝へと問い掛けて、自ら先にソファーへ座る。美哉と橘香は伊吹の後ろで控えている。
「お話は伺います。しかし、執事である私に気を遣って頂く必要はございません。
お気になさらずお聞かせ下さい」
智枝はソファーへは座らず、伊吹のすぐそばで姿勢正しく立っている。
「……僕は執事であろうが侍女であろうが、大切な家族として接したいと思っている。家族なら一緒に食事を摂るのが当たり前だし、話をする時は座って目を同じ高さに合わせるのが当然だと思っている。
いついかなる時も執事や侍女が畏まってたら、こっちだって疲れるんだ。分かるでしょ?」
「お言葉ながらご主人様。ご主人様はこれからもっと多くの従者の上に立たれるお立場です。今から人を使う事、人を従える事に慣れて頂かなければなりません。
従者が畏まるのは主を敬愛しておればこそ。馴れ合いになってはいけないのです」
伊吹の言葉に対し、智枝は聞く耳を持たぬと持論を押し付けて来る。伊吹としては、智枝の考え方もある意味正しいのだろうとは思うのだが、自分にそれを求められても困る。
この世界で育ったのなら何の不思議も疑問もなく、従者を当たり前のように使えたのかも知れないが、伊吹は前世一般庶民である。前世の常識が邪魔をして、すんなりと自分の立場を受け入れる事が出来ない。
「……じゃあ、智枝はいついかなる時でも僕に対して馴れ合ったり、甘えたり、抱き着いたり、家族のような触れ合いはしないんだね?」
「当然です。私はご主人様の生活をお支えする道具。道具に対する情は不要です」
伊吹は前世世界で呼んでいた、ある小説を思い出す。小説投稿サイトに投稿されていた、女性の願望を全て断る事を職業としている主人公の物語だ。
今回の場合は馴れ合いをしたいという願望を抱いているのは伊吹なので、お断りをするのは智枝になる。
「今から僕が言う事する事を全て拒否・否定してほしい。
プロの執事として、僕の無茶な命令を断り、僕を窘める事が出来るのであれば智枝は完璧な従者だ。その時は僕も譲歩しよう。
けれど、僕の行動を拒否せず、智枝が受け入れてしまった時は、智枝が僕に譲歩するように。
どうかな? 智枝に僕の我が儘を諫める事が出来る?」
「私はご主人様に譲歩などと、そんな偉そうな事は申しません。もしも私が馴れ合ったり、甘えたり、抱き着いたりしてしまった時は、ご主人様のご意向に沿った形でお支えするように致します」
「よし、じゃあ今から始めようか。僕の言動全てを断るんだ。いいね?」
智枝は伊吹の声に頷かず、澄ました顔で伊吹を見つめる。そんな引っ掛けに気付かない訳がない、とでも言いたげな表情。
「チッ! はぁ、本当に強情な女だ。俺の言う事に全て頷いていればいいものを」
伊吹は智枝が自分の仕掛けた罠に引っ掛からなかった事に腹を立てているかのように見せる。脚を組んで、腕を組んで智枝を睨み付ける。
「主の命令に黙って従うのが執事の仕事だろうが」
「いいえ、ご主人様。それは違います。ご主人様が歩む方向を間違われませんようお諫めするのも執事の仕事なのです」
「でも智枝って俺に命令されて、上手に仕事が出来た後でよしよしって頭撫でてやると嬉しそうにしてるよな?
本当は俺に命令されたいんだよな? よくやったなって、褒めてほしいんだよな?」
智枝の自信をそのまま纏っているかのような、生き生きとした表情が僅かに曇る。
「そのような事はございません。例えご主人様からお褒めの言葉を掛けられなくとも、やるべき事をするのが執事の務めでございます」
口調が堅い。心を読まれぬようにと、やや構えている印象を受ける。伊吹はさらに智枝へと言葉を投げ掛ける。
「良いんだ。誰しも相手にこうしてほしい、こう言ってほしい、こう思っていてほしいという願望がある。
智枝も俺に対して、素直になっても良いんだぞ」
少し思案した智枝だが、馴れ合ってはならないというルールを思い出したかのように、小さくお断りしますと呟くに留めた。
「智枝。俺が智枝を褒めたところを想像したな?」
「いいえ」
「智枝、スカートをたくし上げて下着を見せろ」
突然の命令に、智枝の身体が強張ったのが伊吹にも見て取れた。
「お断りします」
「口ではそうは言っていても、身体がどう思っているのかは別の話だ。
本当の智枝は、俺に心から屈服されたい。言われた通り仕事をこなし、良くやったなと褒められたい。ご褒美だぞって、頭を撫でられたい。
そう思っているんだろう? 素直になれ、想像しただけで身体の芯が熱く滾っているはずだ。俺が直接見て確かめる。スカートをたくし上げて下着を見せるんだ」
「お断りします」
努めて冷静に、感情の起伏なく答えようとしているのが伝わってくる。
主の為を思うのなら、そんなバカな事を言って女性を困らせてはなりませんよ、と子供に言い聞かせるように諫めるべきなのだ。
「主の手を煩わせるつもりか? 何度も言わせるな、お前の下着を確認する。自らスカートをたくし上げて俺に見せてみろ」
「お断りします」
「そうか、さては俺の手で無理矢理スカートをたくし上げられ、直接触れてどうなっているか確認してほしいと思っているんだな?
だから頑なに見せようとしないのだろう。なるほど、主の手によって辱められたいなどと考えていたのか。とんでもない変態執事だ」
「……いえ、違います」
智枝の身体が僅かに身じろいだ。動揺しているのか、それとも伊吹の口から出た言葉を想像し、自らに置き換えてしまったのだろうか。
「どうした、主の命令に従えないのか?」
「私は侍女ではなく執事です。そのようなご指示は業務内容に含まれておりません」
「業務内容? 業務内容というのであれば智枝は俺に抱かれて子を産むのも業務内容に入っているんじゃないのか?
誰かからそう指示を受けてるんだろう? ならば絶好の機会なんじゃないか?」
「いえ、決してそのような事はございません!」
追い打ちを掛ける伊吹に対し、必死な表情で否定する智枝。
「でも男性保護省から来ている人間だからな、どこまで信頼出来るか……」
「いえ、私は男性保護省へは出向している身であり、本来の所属は……」
「現に今、俺の命令に背いているじゃないか!」
「私はご主人様をお諌めするのも役割であり……」
「そんな事言って、僕を思い通りに操ろうとしているんでしょう!? あの日屋敷に来た警官だって、本当の警察官だった。
僕を誘拐して、子種を搾り取るつもりなんだ。オスの鮭みたいに!」
「そのような事はございません! 私は生涯、貴方様へお仕え致します。この身も、心も!
何も隠し事などございませんし、嘘偽りを吐く事もございません。どうか、どうか私を信じて下さいませ……」
激高する伊吹に対して、深く頭を下げて見せる智枝。いつでもこの首を差し出す覚悟はある、そう訴え掛けているようにも見える。
「……ホント?
僕、不安なんだ、知らない人が、お澄まし顔で僕が、何をするか、何を言うか、じっと見つめている、のが怖いんだ
だから、だから、仲良くなれたらって、お姉ちゃんの事、智枝さんの事を、良く知れたら、怖くなくなる、のかなって……」
両手で顔を覆い、力なく俯いて呟く伊吹。鼻水を啜り、しゃくり上げて、上手く話せないでいる。
しばらくの時間を要して伊吹の呼吸が落ち着き、顔を上げて智枝の様子を見上げる。智枝はブルブルと身体を震わせ、両手を握り締め、さらには歯を食いしばっている。
そんな智枝の様子を見て、伊吹はゆっくりと立ち上がり、智枝へと向き直る。
「怒らせちゃったね、ごめんなさい、僕、お姉ちゃんに酷い事言っちゃった、許して下さい。お姉ちゃんは僕の事を思って言ってくれてたのに……」
智枝は自分へ頭を下げる伊吹に驚き、膝を突いて伊吹の顔を覗き込む。
「そんな! お顔をお上げ下さい! 私は何も怒ってなどおりません!」
「ホントに? 怒ってないの? 僕、酷い事いっぱい言ったのに?」
「もちろんです。酷い事など何もされておりませんので、許すも何もございません」
智枝の言葉を受けて、伊吹がホッと息を吐く。
「良かった。僕、お姉ちゃんに嫌われちゃったかと思って、すごく怖くて、僕、僕……」
崩れ落ちるように床に座り込む伊吹。智枝が思わず伊吹の肩を支え、そしてそのまま力強く抱き締める。
「私はご主人様をお支えし、お守り致します! 何に代えましても!」
「智枝さん、アウト-」
「チョロすぎアウト-」
「え?」
伊吹は抱き締められている智枝の腕を優しく解き、ゆっくりと立ち上がる。
「泣いている僕を抱き締めてしまったね。弱く、力のない僕をそのまま受け入れてしまったね。
強くなるよう促すのではなく、冷静に疑いを晴らすのではなく、感情的になった僕を諫める事も出来なかったね」
「あ……」
「と言う事で、この勝負は僕の勝ちだね。家族のように抱き締められて、嬉しかったよ」
智枝は慌てて立ち上がり、伊吹に対して頭を下げる。
「ししし失礼致しました! 私とした事がご主人様に気安く触れるなど……」
頭を下げたままの智枝に対し、伊吹は手を取ってソファーへ座らせる。そして、その手を握って語り掛ける。
「僕はいずれ美哉と橘香と結婚するつもりだ。もし嫌でなければ、智枝との結婚を考えたいと思っている。
僕は母も祖母も亡くした。侍女はいるけどあくまでも侍女でしかない。
もっと親密で、確かな信頼関係で結ばれた関係になりたいんだ。動く家具に囲まれて、ひとりぼっちで生活するなんて嫌なんだ。分かるだろう?」
伊吹の問い掛けに対して、曖昧に頷く事しか出来ない智枝。理解出来るが、執事としての立場や本来あるべきとする智枝の中の理想が邪魔をしているのだ。
「執事として、妻として、そして家族として、僕と共に楽しい生活を送ってほしいんだ。その方が、みんな幸せになれると思わない?」
伊吹は智枝にそっと顔を近付けて、その耳元に小さく囁く。
「ねぇ? お姉ちゃん」
「はうっ……!?」
智枝はこの時初めて、すでに自らの性癖を打ち抜かれた後だという事に気付いたのだった。
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