柄杓精魂
Slick
柄杓精魂
死後の世界を信じるか、だと?
まったく冗談も大概にしろ、というものだ。それとも私をからかっているのか?
あぁ、もちろん信じるとも。なにせそこで働いているんだから。
□ □ □ □
モクモクと湯気を上げる大釜から柄杓を引き抜くと、私は腕まくりした片手の甲で汗ばんだ額をぬぐった。ピッと解いた鉢巻を首に引っ掛ければ、しゃがんで窯の火加減を調整する。
和時計が午(ひる)を告げた残響を追うようにして、私は振り返ると柄杓を作業台に放り投げた。束ねた長髪を揺らし、ドッカと畳に腰掛ける。
「――師匠、この午前は何人水揚げ出来ました?」
私の隣で、同様に汗を流した若い女性が、畳に横たわったまま尋ねた。ニマニマと挑発的な笑みでこちらを見上げる彼女は、名を龍華という。きりとした眉と豪胆な性格の持ち主だった。
「ついでに、あたしは43です」
「悪いな。51だ」
「うそ、信じられない」
周囲に浮かぶ火の玉など意にも介さずに、彼女は鉢巻を押し上げながら口を尖らせた。私は衣紋の胸元を開いて風を送り込むと、伸ばした髪の一房を耳に掛け直す。
「――まったく、呆れた二人だな。仕事を遊びか何かと勘違いしてないか?」
低く響いた声で、二人は同時に部屋の入口に目を遣った。そこにはやけに影の薄い襤褸(ぼろ)を着た老人が、暖簾を捲って二人を見ていた。
老人には足が無く、その身体が宙に浮いていることにも今さら驚かない。
「ほら、昼飯を届けに来たぞ」
「あぁ爺さん、ご苦労さん」
老人が雑に投げて寄越した包みを二つ、パッと空中で受け止める。その間に畳から起き上がった龍華は、周囲に揺らめく火の玉たちに呼びかけた。
「さぁみんな、あの影薄の幽霊爺についてって」
「口の悪い小娘が」
老人は毒づきながらも、また夕刻に来るぞとだけ言い残してスィーっとその場を去った。部屋中に浮かぶ火の玉たちも、老人の後を追うようにゆらゆらと部屋を出て行った。
「――うわっ」
声に振り返れば、昼飯の包みを開いた龍華が顔をしかめている。
「また爆弾むすび? まったくもう、閻魔様に何とか相談できないんですか?」
「……私たちに食わす飯といえば、そんなものなんだろう」
とはいえ、仕事終わりの飯は何であれ旨いのが世の常だ。
それは現世(うつしょ)でも、この常世(とこよ)でも同じである。
□ □ □ □
常世、冥界、或いは黄泉の国。呼び方は様々だが、私たちはそこで暮らしていた。
死後に肉体を離れた霊魂たちを「こちらの世界」へと掬い上げる、それが私たちの仕事だった。
ひと呼んで『人魂の水揚げ人』。
「そういえば、そろそろ良い加減、師匠の前世を教えてくれませんか?」
爆弾むすびに齧り付きながら、龍華が言った。口いっぱいに頬張って喋るものだから、もごもごと声が籠る。
「いや、あの頃は……正しくないことをしてしまった、とだけ言っておこう」
「ケケッ。だから師匠は、こんな狭間の世界に閉じ込められたんですよね?」
「もちろん今は反省しているとも。……でももう後の祭りだ」
私は死後に成仏できず、ここで働き始めてもう数百年になる。
「たしか江戸時代の生まれ、でしたっけ?」
「あの世を後世でそう呼ぶなら、確かにそうだ」
数百年もあれば人も変わる。
いつか逆に、彼女の前世を尋ねてみるとしよう。
初めて私を訪れたときの龍華は、今でもよく覚えているから。
思わず深いため息をついた――その刹那。
ボコボコッ!
不意に、作業場の釜の湯が激しく滾り始めた。
「ッ! 師匠――」
「待て、落ち着くんだ」
反射的に腰を上げた龍華を、短く片手で制する。
私たちの使う大釜は、三途の川から水を汲んで来ていた。その水面(みなも)が現世との関門になり、魂の冥界への入口となるのだ。
「でも......」
「非常時にこそ、職人は慌ててはならぬ」
なお狼狽える彼女に短く釘を刺すと、私は釜の揺れ具合、白濁する湯気の揺らぎ、その色味などを鋭く吟味した。
「......よし、今度の客は女性だな。それもまだ若齢だ。急ぎ、弐番と伍番の霊薬を持ってきてくれ」
「御意!」
龍華が薬棚へとすっ飛んでいく背後で、私も立ち上がると鉢巻をギュッと締め直した。作業台から一番長い柄杓を手に取り、グツグツと煮立つ大釜を覗き込むと背に垂らした長髪を肩に掛ける。
そっと滑り込ませるようにして、柄杓を水面に差し込んだ。火を炊いていないにも関わらず暴れる水の振動を、握った柄から読み取っていく。
大釜の底で、奇妙な光が揺らいでいた。
戻ってきた龍華が、慣れた手つきで二種の霊薬を同時に釜に注ぐ。奇妙な煌めきが押し花のように水面に広がると、沸き立っていた水面が鏡のように滑らかになった。
シュッシュと立ち昇る湯気に目を細め、そっと柄杓に問い掛ければ――現世へと伸ばしたその先端に、確かな手応えがあった。
「来るぞ」
ふと、さながら助産師だなと思う。
抵抗する力を感じたが、柄杓を強引に引き上げた。その瞬間、ビキッと水面がひび割れた。
白熱した蒸気が幾重もの小さな渦を巻く。釜が興奮気味に身を震わせた。まさに地獄の釜、しかも魂の方から飛び出してくるとは。
七色の閃光。
まるで冥界での産声のように、引き揚げられた魂はボフッと激しい炎(ほむら)を上げた。
――それも、二つだ。
「えっ、今日のお客は二人連れ!?」
龍華が素っ頓狂な声を上げた直後――二つの人魂は怒り狂ったように部屋を飛び回り始めた。
壁に何度も激突しては焦げ跡を残し、派手に和時計を叩き落としたかと思えば、畳にも豪快に火の粉をふり撒く。慌てた龍華の制止も聞かずバチバチと空を切る二つの火の玉は、ある意味幻想的な眺めでもあった。
「もう、良いだろう!」
私の一喝が、不思議な反響とともに部屋中に響いた。ちょっとした幻術の一つだ。
二つの人魂は、ピタリと動きを止めた。ジジッと不安定な火花を散らす一対の人魂は、微かに震えているように見えた。
「なぁ二人とも、少し話さないか?」
□ □ □ □
「......あの、師匠?」
無聊に耐えられなくなったのか、人魂と会話をする私の耳元に龍華が囁いた。因みに二つの火の玉は、ともに先ほどから一切の言葉を発していない。
「えっと、何を言ってるか分かるんですか?」
「......何となく、だけどな」
私は弟子に莞爾と笑いかける。
「長いあいだ多くの人魂を見ていれば、炎の強弱や揺らぎで自然と何を言いたいか分かるんだ」
呆れたように目玉をぐるりと回した彼女に、私は肩をすくめる。
「とりあえず、通訳してやろうか?」
二つの人魂はゆらゆらと揺れた。片方は深紅、もう片方は橙色の炎だった。
二人は、前世で共に女性だった。二人は出会い、恋に落ちたが、周囲がそれを許さなかった。思い悩んだ末に家を飛び出した先で、二人は手に手を取って入水......そして、今に至るという。
「――なるほど、だから炎が不安定なんですね」
話を聞いた龍華の言葉にも一理あって、この不安定な炎は『死にきれなかった』魂に共通のものだった。
「よし、事情は分かった」
私とて職業柄、こういった魂から相談を受けることも少なくない。少なくないのだが......。
「でも私には、じゃあどうしろ、と助言することは出来ない」
「え、雑じゃないですか?」
そう声を漏らした後で、はっと口を押さえた龍華に一瞬目を遣ると、私は人魂たちに向き直る。
「ここは常世だ。君たちの生きた現世ではどうか知らないが、この世界では君たちの決定が全てになる。ここでずっと、二人だけで居るのも良い」
人魂の揺らぎが少しだけ収まった。
「――ただし」
そう告げると、私は畳から立ち上がる。
「親より先に死んだ魂は、永遠に三途の川を渡らせてもらえないそうだ。何でも、賽の河原で石を積まねばならないそうだが、鬼がそれを邪魔しに来るんだとか......。つまるところ、二人して永久にこの狭間の世界に閉じ込められることになるな」
人魂はかすかに炎を傾けた。私の目には、二人が見つめ合っているのが分かった。
「悩みたいなら存分に悩めばいい。但し現世に帰れるのは今のうちだ」
私は、先ほど二人を引っ張り出した大釜に歩み寄った。衣嚢から霊薬の小瓶を取り出すと、数滴を垂らして柄杓で攪乱する。
「さぁ、中を覗いてみると良い」
人魂たちを招き寄せる間にも水面は鏡のように変化すると、その向こうにおぼろげな光景が見え始めた。
それは、現世の様子だった。
『あぁ、――ちゃん! どうして......っ!』
鏡の水面を通して、泣き叫ぶ初老の女性が見えた。彼女は回転する紅い光に照らされて、布の掛けられた担架に縋りついている。
人魂の炎が激しく震えた。
『――姉、そんな、そんな! こんなことになるなら、もっと早く話し合っていれば......』
幼い少年の悲痛な声も聞こえた。
再び人魂が暴れ出す前に、私はサッと釜の蓋を閉めた。
「残された者たちが悲しむのは道理だ。しかし同時に、君たちが死を選ぶほど苦しんだのも事実」
出来るだけ感情を挟まないよう話すのは、いくら慣れていても難しかった。
「いま選ぶのは『君たち』だ。誰が何と言おうと、君たち二人の自由に生きて、そして自由に死ねばいい」
優しくも残酷なのが彼岸の常。死ねば全て自動で終わらせてもらえる、という訳でもないのだ。
パチパチと燃え滾る炎が激しくなる。すでに死を選ぶほど葛藤し、愛し、憎み、絶望を経た魂を私が導けるのはここまでだ。
「戻って新たな生き方を探すも良し、このまま常世で相手と添い遂げるのも良し。そろそろ時間切れだな......さぁ、どちらか選べ」
ブワッ!と熱い風が巻き起こった瞬間――二つの人魂は、暖簾を撥ね上げて部屋から飛び出した。
「......えっと、つまりどういうことですか?」
目を白黒させて龍華が尋ねる。
「ああ。つまり彼女たちは一緒にいることを選んだのさ」
私は嘆かわしげに、しかし同時に喜ばしげに答える。
「当然といえば当然だな。そも二人は『一緒にいる』ために死を選んだのだから」
「そんなこと言って……師匠は何も感じないんですか?」
その問いには答えずに、私は大釜の蓋を開けると柄杓でトンと水面を軽く叩いた。そこに映っていた光景は、あっという間に溶けて消えてゆく。
最後に聞こえてきた悲痛な声は、おそらく現世にて二人の心の臓が止まったからだろう。
「......係累は桎梏か、はたまた至宝かな」
床に転がった和時計が、ボーンと虚しく時を刻んだ。
□ □ □ □
ブン!
握った木剣で空を切ると、私はハッと息を整えた。
暇さえあれば――特にこんな気分の時は、一人で剣術の稽古に打ち込む。それは前世から抜けない習慣だった
さらに数回ほど素振りを繰り返し、型をなぞって軀の重心へ意識を向ける。丹田に力を込め、生前受けた教えを思い出そうと努めた。
――まるで生きてた頃みたいだな。
私の中の、もう一人の私が呟く。
「!」
そこまで思考が至ると、私は稽古の手を止めた。
見上げれば、空にはいつも通りどんよりと雲が立ちこめていた。まるでこの世界に、私一人だけの呼吸があるように思われた。
見渡す限り荒涼とした常世には、人っ子一人の姿も見えない。遥か彼方にはくすんだ鈍色の山脈が冷たく聳え立ち、そこから流れ出る三途の川が轟々と水しぶきを立てていた。
その殺風景な景色に少しでも彩りを加えようというのか、すぐそばの川岸では毒々しい血色の彼岸花が首を揺らしている。
私はその川辺まで下りていくと、いつ見ても不思議なほど透き通った水で火照った顔を冷やした。だが私には、この川を渡ることは決して出来ない。
風に乗って、川上から微かに死者の唄が聞こえてくる。それを恐ろしいとも思わないのは、自分も死んでいるからか。
――私の前世。
不意に、記憶が溢れ出した。
■ ■ ■ ■
貧しい武士の家の生まれだった。だが概して幸せな一家だったと思う。
私は幼少から、父に剣術を叩き込まれて育った。父の指導が上手かったのか、はたまた父の剣才を受け継いだのかは分からないが、元服する頃には地元でも腕の立つ剣士として名を知られる程になった。
そんな折、私にとある依頼が舞い込んだのだ。
介錯。
徳川幕府も安定し、世は天下泰平の時代だった。人を斬ったことのない武士がほとんどだった時代、素早い仕事が求められる介錯に『名剣士』が呼ばれるのも当然だった。
そして何より、その罪人は私の分家の親族だったのだ。
あの日、初めてこの手で人を殺めた。
しかしそれは、私にとって全く無意味な殺しだった。
父は常々、剣術は人としての教えであると口にしていた。私もそれを信じていた。
だがあの介錯の任は、私の信じていた武士道とあまりに乖離していた。
あんなことのために、今まで剣の腕を磨いてきたわけではない。
だが剣術が編み出されたのも、元はと言えば誰かを殺すためだ。
私は訳が分からなくなった。
いったい何のために剣を振るうのか?
芸としてか、自己満足か? はたまた私はただの臆病者なのか。
あの日見た血飛沫が、いつまでも記憶から離れなかった。
それは死の床に伏してなお。手にはずっと刀を振り下ろした時の感触が残っていた。
次の世では、この手で答えを探したい。
そう深く後悔しながら、私は現世に別れを告げたのだった。
――そして、ここに導かれた。
■ ■ ■ ■
龍華が家から出てくるのを感じて、私はハラリと長髪を解くと風になびかせた。
「この常世は……夢と混沌に満ちているな。残酷なおとぎ話の具現化だ」
賽の河原に立つ私は――今は剣士ではなく『水揚げ人』だが――静かに語りかけた。それは、先ほどの彼女の問いへの回答でもあった。
「現世では、この世界のことはおとぎ話と思われている。数多ある宗教の寓話の一つに過ぎない、とか」
龍華は癖でぐるんと目玉を回すと、ついと顎を上げた。
彼女は『水揚げ』の腕こそ一流だが、こういった哲学にはめっぽう興味が無い。
「……こんな殺風景な世界なら、誰も信じないでしょうけどね」
適当に発せられた相槌に頷くと、私は先を続けた。
「お前くらいの齢だった頃、他の大勢の魂とともに私も常世にやって来た」
「――前世で『正しくないこと』をしでかした末に、ですか?」
急にニヤニヤし出した龍華に、思わず眉を顰める。
「まぁ物は言いようだな……だがあの日、私だけは三途の川を渡らせてもらえなかった。代わりにここへと連れて来られ、ここで働くようあの爺さんに言われたんだ」
口の端を引き攣らせながら、私は遠い記憶を探る。なぜだか、いま話しておく必要がある気がした。
「訳が分からなかった。……だが歳を重ね、幾多の魂を見送ってきた今や、全て自分の宿命だったと分かる」
遥か遠くの鈍色の空を見上げ、私は呟いた。
脳裏にはまだ、あの血飛沫がこびりついていた。
ふと、砂利を踏みしめて龍華が歩み出ると、不安げに私を見つめる。
「あたしがここに居るのも、同じ理由ですか?」
その質問に鼻を鳴らすと、私は振り返って彼女の肩を軽く小突いた。
「おとぎ話が本当ならな」
それだけ言い残すと、立ち尽くす彼女の脇を通り過ぎて家に戻ろうとした。
「師匠!」
不意に呼び止められ、暖簾に掛けた手を下ろす。肩越しに振り返れば、龍華がじっとこちらを見つめていた。
「何だ?」
彼女の唇の端が、珍しく震えているように見えた。
「あの……折りいって、お話があるんです」
□ □ □ □
前世の記憶がない。
龍華の言いたいことは、短く言えばそれだった。
「あの人魂を見たとき、ハッとさせられたんです……あそこまで現世に思い残せるものがあるんだ、ってことに。でもあたしは、自分が何者かさえ分からない」
掌を額に押し当てると、龍華は微かに肩を震わせてボソッと呟いた。
「自分の生すら忘れてしまった人間に、他の魂を導く資格なんて無いですよね?」
皮肉交じりに響くのは、掠れた声音。
いつも元気溌剌とした彼女のこんな一面に、なぜ気づくことが出来なかったのだろう?
今なら分かる。
彼女は決して自分の話をしようとはしなかった。毎日の生意気な態度の裏で、龍華はどれほど苦悩してきたのだろう?
「でも、もう我慢できません。今までお世話になって悪いんですが、どうか暇(いとま)をください。……自分探しをしたいんです」
暫くの沈黙。
和時計の単調な音だけが部屋に響く。
「……もしかして、私の前世をあれほど聞きたがっていたのも、自分に欠けたものを欲していたからか?」
「いえ、その……なにか思い出すこともあるかなと思ったので」
「本当に何も覚えていないのか?」
「はい。……一番古い記憶は、気づいたら三途の川のほとりに立っていたことです。そこから師匠と同じように、あの幽霊の爺さんに連れられてここに来ました。師匠の初印象は……かなり無愛想でしたけれど」
「そりゃ悪かったな」
一瞬悲愴な笑みを浮かべると、彼女は深く頭を垂れた。
「ごめんなさい……」
私は反対に天を仰ぎ見た後で、そっと彼女に話しかける。
「つまり、こういうことか? お前は生前の記憶が無いから、自分はここにいる資格が無いと思っている」
「はい。――いや、そもそもあたしは生きているのかな? 毎日まるで、知らない誰かの人生を送っているみたいで……」
――失われた記憶。
そうよく聞く話ではない。現にここに来る魂は、ほぼ全員が前世の記憶を持ち合わせている。私だってそうだ。
それ故に苦しい魂も多いが。
しかし、全く対処法が無い訳でも無かった。
「――望みを託すなら」
そう告げると、私は龍華に片手を差し出した。
「手を」
私の言葉に怪訝な顔をしながらも、彼女は素直に掌を突き出す。それを私はそっと包み込んだ。
「ちょっと痛いが、我慢しろよ」
そう断ると、懐から取り出した短刀で、私は彼女の人差し指の腹を一閃した。
「痛ッ!? ちょっ、何するんです!」
慌てて手を引っ込め、噛みつくように叫ぶ龍華を顧みずに、私は立ち上がると自分の大釜に近づいた。短刀の刃を釜に浸せば、水中に朱色の煙が滲む。
血には慣れていた。
「血はその誕生より人の身体を巡り、巡る。そして宿主の魂を秘め、その記憶を運ぶのだ」
柄杓で軽くかき回すと水面は奇妙に泡立ち、その一瞬後には鏡のようになった。そして、その奥から淡い景色が見え始める――
その直前に、私は釜の蓋を閉めた。
「ここには今、お前の記憶がある。遠い昔に失われし過去だな」
ポンと釜の蓋を叩くと、人差し指を咥えていた龍華がはっと面を上げた。
「あたしの……記憶?」
「見たいのなら見れば良い。止めはしないぞ」
その言い方に含みを感じたのか、一旦腰を上げかけた彼女が怪訝な顔を向ける。
「……どういう、ことですか?」
「お前も分かっている筈だろう? ――記憶を取り戻したからと言って、必ずしも幸せな結末とは限らない」
私は嘆かわしげに首を振ってみせる。
「ごくごく稀に、記憶を失った魂が来ることがあるんだ。彼らの記憶を取り戻すのは容易だが、それで幸せになった試しはまず無いな」
胡散臭そうな様子で見返す彼女に、私は両手を上げた。
「そんな目で見るな、嘘じゃないよ。前世を忘れるには必ず理由がある。それは何かしら『忘れたい記憶』があるからだ。でも皮肉なことに、忘れた途端に人は失った記憶を求めたがるものだな」
龍華はガックリと首を折った。
二人の背後で、火を炊いてもいないのに大釜がカタカタと揺れ始める。
「……じゃあどっち道、私はこのままずっと根無し草ですか?」
「もちろん違うとも。これはお前の記憶だ、お前の好きにすれば良い。常世の常だが、全てお前の『自由』だ」
大釜がさらに激しくグラグラと震え始めた。
「血で呼び戻した記憶は不安定だぞ。今を逃せば、もう二度と記憶の復活は叶わない。どちらにせよ急げ」
それでも、彼女は動けなかった。
「……一つ言っておくと」私は、ためらいがちにそう付け加える。
「記憶が無いからと言って、ここに居てならない訳では無いんだぞ? 何せこんな私が偉ぶっていられる場所なんだから」
おどけて自虐的に言うと、彼女もふっと力無く笑った。
「これでも前世では、私も信念に反する行いをしてしまった……今だって『正しい生き方』なんてものは皆目分からないよ。
けれど言っただろう? だからこそ、ここに来たのが自分の宿命だったと分かったんだ。いろんな生き方を知って、いろんな死を見ていくことが……そして、自分に欠けている何かを埋めていくことが」
そこまで言うと、私は悪戯っぽく付け加える。
「それに、どこでどう立ち回れば上手く生きれるか予め分かっていちゃ、つまらないだろう?」
片手に持った柄杓で、私は龍華の頭をポカンと軽く叩いた。
かつての私とは違う――しかし確実に答えを探している途中の私は、同じく答えを求めてこの世界で出会った弟子に語りかけた。
「生き方を知らないなら、新しく生き直せば良い。常世は終わりの世界であると同時に、新たな人生の始まりの世でもある。お前がここに来たのは、そのためなんじゃないのか?」
龍華は泣き笑いのような表情で顔を上げた。
細い涙に濡れたその頬は、うっすらと紅潮していた。まん丸の瞳を縁取る長いまつ毛が揺らぎ、唇の端はひくひくと震えている。
その瞳は、喪失の悲しみと希望の光でごちゃ混ぜになっていた。
「師匠……?」
「それに個人的にも、お前は過去であるより未来であるほうが似合っていると思うぞ?」
大釜がブワッと音を立てて吹きこぼれた。
そこから溢れ出した湯は、遠い昔に失われた記憶の色をしていた。
彼女の頬をツーっと一筋の輝きが流れ落ちる。
それは過去の記憶より、ずっと綺麗な光だった。
龍華は声を上げて泣き、私の胸に顔を埋めた。衣紋に染みが広がるのも気にせず、私は子どものように泣きじゃくる彼女の肩にそっと手を添えた。
響く嗚咽とともに、私もあの血飛沫がゆっくりと消えていくのを感じた。
和時計が優しげに時を刻んだ。
□ □ □ □
――数日後。
「師匠! 今日の午前は何人水揚げ出来ましたか?」
午前の一仕事を終えると、柄杓を肩に担いだ龍華がむんと胸を張って尊大に尋ねてきた。
「……お前こそ先に言うのが筋だろ」
「あ、ってことは自信無いんですね?」
「なに? ようし良いだろう、53だ。それでお前は?」
腹を括ってそう答えると、龍華は満面の笑みを浮かべていて――。
「54です、遂にあたしの勝ちですね!」
あぁ、と私は感嘆する。
彼女はやはり、未来である方が似合っている。
「……だが、昨日の分を足せば同点だぞ」
「うっそ、信じらんない」
不意にクツクツとした笑い声に振り返れば、入口にあの老人が凭れ掛かっていた。
「相変わらずだな、二人とも。初めて会った時からまったく変わってないぞ?」
「いや、少なくとも龍華は成長しているさ」
半笑いで昼食の包みを受け取ると、すぐさま彼女がひったくって中を見る。
「うげえ、また爆弾むすび?」
「なにか問題でも?」幽霊の老人は、怪訝な顔をして私を見た。……おい、やめろ――
「その爆弾むすびは、お前さんの師匠の好物だった筈なんだが?」
「は?」
振り返った龍華の顔を、まともに見返す自信がない。
「あっれ~どゆことですか、ししょー?」
彼女が指をポキポキ鳴らしながら、凄みのある笑顔で迫ってくる。
「つまり、ずっと嘘ついてたってことですよね? 後でゆっくり相談しましょうね〜?」
「――あぁ、それともう一つ」
やっと失言に気が付いたのか、その場を取りなすように老人が割って入った。……今さら遅いが。
「実を言うと、今日来たのは儂だけじゃないんだよ――ほれ、二人とも! 入って来なさい」
老人の声に応えて……二人の若い女性が互いの手を握りながら暖簾を潜って姿を見せた。
「……えっと、お邪魔します? 実は私たち、今日からここで働かせてもらうことになったのですが……」
一目で誰か分かった。
「あ! もしかしなくても、この前の二人でしょ!?」
龍華がまっ先に声を上げると、ぴょんと二人の前に飛んで行った。
「そうそう、たぶんこっちが紅い人で、こっちのあなたが橙色の人よね?」
「よ、よくわかりましたね」
「ふっふーん。まぁあたし、これでも職人なんで? ――あたしは龍華、今日からあなた達二人の姉弟子ね!」
「は、はい! よろしくお願いします、龍華さん」
二人してペコリと頭を下げた彼女らを、龍華はむぎゅーっと抱きしめて歓迎の意を示す。それから、新しいおもちゃを貰った子供のように純粋無垢な笑みを浮かべると、私を振り返ってニパーッとはにかんだ。
「やっぱり、ここに居るほうがずっと楽しそうです!」
あぁ、やはり龍華は未来を駆ける存在だ。
私はいま一度そう思い返すと、長髪を揺らして彼女にニッと頷いた。
柄杓精魂 Slick @501212VAT
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