第一章

CDS

 京葉線海浜幕張駅から徒歩十分のオフィスビル。最上階にある大食堂で、夜神やがみシンヤはいつものように昼食を摂ろうとしていた。

 相変わらず残業続きの日々の中で、シンヤにとっては昼休憩の時間がなんとか息抜きができる時間であった。例えれば、プールで息継ぎなしで限界まで泳ぎ続けてようやく息継ぎができたような感じだ。

 シンヤの向かいに、二つ後輩の根津ねづクロウが食器をのせたトレイをテーブルに置いて椅子に座った。

 クロウは小太りな体を小刻みに揺すって、幼く見える丸顔には笑みを浮かべている。


「どうしたんだよ。嬉しそうな顔して」


 シンヤは箸を手に取りながら尋ねた。


「先輩、いよいよですね」

「なにがだよ」

「なに言ってるんですか。十二月ですよ! 世間じゃクリスマスの話題で持ちきりじゃないですかー」


 クロウが身を乗り出して来る。鼻息が荒い。


「顔が近いよ」

「クリスマスと言えば、カノジョと豪華なディナーを予約して、ケーキを食べて、その後は高級ホテルのスイートルームで夜景を見下ろしながら。ムフフ!」

「おまえはバブル期のサラリーマンか」

「いやいや。ぼくたち以外のリア充どもは今でもそうなんですよ! きっと!」


 息巻くクロウの言葉を聞きながら、「勝手におれとおまえを一緒にするなよ」とシンヤは考えていた。


「先輩。ぼくたちも真剣に考えましょうよ。名付けて『CDS』を!」

「『CDS』? なにそれ」

「『クリスマス作戦』ですよ!」

「『残業ストレスパワー』みたいだな」

「え? ゼット?」

「いや、なんでもねえよ。気にするな。どうせおれたちはクリスマスも関係なく仕事だろ。もれなく残業もセットでな」

「悲しいことを言わないでくださいよ」


 言いたいことを言って落ち着いたのか、クロウも食事を始めた。


 ――クリスマスか。


 当然シンヤも素敵なカノジョとイヴの夜を過ごしたいと考えていた。

 以前の自分より、周りに女性がいる状況ではある。

 以前というのは今から三ヶ月前。まだ夏の気配が色濃く残っていた九月。シンヤは課長のおじさんからスマートウォッチを継承して超絶なパワーを持つ『残業マン』になった。その時からシンヤの人生に変化が生じたのだった。


「でもいいですよね。先輩には紅月こうげつさんがいますから」


 箸でハンバーグを突いているクロウが唐突に言う。


「え! な、なに言ってんだよ」

「最近なんだか親密じゃないですか」

「そんなことねえよ。そりゃあ同期だし普通に話したりはするだろ」

「そうですかねえ」


 シンヤはクロウを見ながら、意外に鋭い奴だ、と背筋に冷たいものを感じた。

 人生の変化その一は紅月サヨだ。

 サヨは職場ではいわゆる陰キャとみなされている。サヨを恋愛対象と見ている男どもはほとんどいないであろう。

 だが、今思えばシンヤは以前からサヨに少なからず好意を抱いていた。それは同期だからという理由だけではなかった。いや、推定Fカップの胸が気になって仕方がなかったというのは否めないが。

 でも周りの目を気にして、サヨへの好意を悟られまいと振る舞っていた。

 そんな時に『残業マン』になって調子に乗ったシンヤがサヨを振り回してしまい、そして京葉線での『残業獣』事件に巻き込まれたサヨを救い出したりしたことで、二人の距離が少し縮まったのであった。まあそんな程度で、情けないことにまだ手すら握っていない。


桜花おうかさんなんてどうなんでしょうね。確実に高級ホテルのスイートルームでしょ! 一緒に過ごす男が羨ましいなあ」


 シンヤもクロウに同感であった。

 人生の変化その二は桜花ヒナタだ。

 ヒナタはモデル並みのスタイルと小顔の自他共に認める美女だ。シンヤの会社の派遣社員で事務の仕事をしている。

 本社から月に一度、シンヤがいる海浜幕張のオフィスに事務作業をしに来る。シンヤにとってヒナタは高嶺の花でまったく接点はなかった。だが、『残業マン』になってから信じられないことに瞬く間に距離が縮まってしまう。しかもシンヤが『残業マン』であることを知っているというややこしい関係だ。

 そんなヒナタがどうやらシンヤに好意を抱いている節があるのだ。いや、それは勘違いで、ヒナタは『残業マン』が好きであることをシンヤは分かっていた。非常に複雑な心境にならざるを得ない。

 その結果どうなったか。時おりヒナタに呼ばれて、どうでもいい雑用に『残業マン』の超絶パワーを使うという悲しい事態になっている。いわゆる使いぱしりに落ち着いていた。


 ――うおお! おれは何も進歩していねえ!


 フォークを持つシンヤの右手が震える。


「どうしたんですか。まさか、先輩が桜花さんと……」

「そんなわけねえだ――」

「ですよねえ」

「そこはあっさり納得するなよ。しかも食い気味に」

「まあでも先輩は日本人の標準体型。身長も平均的。顔もよく見ればまあまあ普通。社畜でなければそこそこモテると思うんですけどねえ」

「え……」


 シンヤは昼飯を美味しそうに食べているクロウを見つめた。


 ――そういえば、クロウとの付き合いも長いな。おれはこいつに何か良いことをしたことがあっただろうか。いつもいいように利用してきただけのような気がする。


 そんなクロウはいつもシンヤを慕ってくれている。「そうだ、可愛い後輩の期待に応えるヒーローになってやろうじゃないか」とシンヤの気持ちが次第に変化してきた。


「おい、クロウ」

「はい」

「やろうぜ! 『クリスマス作戦』」

「え! 本当ですか。でもぼくなんか……」

「おれに任せろ。おまえに最高のクリスマスをプレゼントしてやるぜ」

「信じていいんですね」

「おう!」


 大食堂の片隅で異様に盛り上がる社畜の二人であった。

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