カッコ良くないフラれ方

 風が下から吹き上がって来る。

 ヒナタを抱いて、シンヤは今にもビルの屋上に着地しようとしている。

 左腕を見た。

 スマートウォッチが埋め込まれたようにボディスーツの表面に表示が光っている。

『ZSP』の円形のゲージの一部が点滅していた。


 ――今夜はここまでかな。


 ヒナタとの時間も終わりだ。

 なぜだ――。

『残業マン』に変身できなくなったら、シンヤに戻ったらヒナタと会えないのか。


「『残業マン』が好きなの」


 ヒナタの声が頭の中で再生される。

 ビルの屋上のへりにシンヤの右足が触れる。

 左手首に振動があり、再度腕の表示を見た。

『ZSP』の円形のゲージの一部が消えた。欠けた円になる。『Regainゲイン』の刻印が『gainゲイン』に変わった。


「――あ」


 変身が解除されて、ビジネススーツ姿のシンヤに戻った。

 右足が滑って屋上の縁から離れた。

 ヒナタの絶叫。

 頭からシンヤは地上に向かって落下する。目の前の景色が目まぐるしく回転する――。


「うわあっ!」


 椅子と机がぶつかる音がして目が覚めた。同時に机に突っ伏していた体が大きく跳ねた気がした。

 恐る恐る顔をあげる。

 向かいの席のディスプレイの横から顔を覗かせていたサヨと目が合った。


「夜神くん、大丈夫ですか」


 サヨはいつものようにカロリーメイトを昼食にして読書に勤しんでいるみたいだ。


「う、うん……」


 シンヤは少し頭を振った。


 ――さっきのは夢か。


 まだ夢と現実が混濁しているようだ。

 思い出してきた。

 クロウにランチを誘われたが、シンヤは食欲が無いので断ってそのまま職場の自分の席で昼寝をしていたのだ。

『残業マン』になってヒナタと一緒にいたのは夢だ。となると、どこからが夢なのか。


「『残業マン』が好きなの」


 ヒナタの声がまた頭の中で再生される。


 ――あれも夢。


 エスプレッソの心地よい香り。苦味。ヒナタの唇。


 ――桜花さんとのキスは。


 シンヤは指先で軽く自分の唇に触れてみた。ヒナタの唇の感触を思い出してきた。


「やあ、先輩。お元気になりましたか」

「なんだ、おまえかよ」

「なんだ、はないでしょう。心配しているんですから」


 クロウが食堂から戻ってきた。大切な感触を思い出すことを見事に邪魔してくれた。

 シンヤは眉をあげてクロウを見る。


「なんだか今日は朝からぼうっとして……。え! 先輩、目の下のクマがヤバいことになってますよ。よく見ると頬も少しこけたような気が……」


 クロウが目を大きく開いている。


「大袈裟なんだよ。そんなことねえだろ」


 シンヤは自分の顔を手で触ってみる。


「ですよねえ。紅月さん」


 クロウにつられてシンヤもサヨを見る。サヨはゆっくり頷いた。


「ちょっと顔を洗ってくるわ」


 シンヤは椅子から立ち上がった。完全に立ち上がる前に膝の力が抜けて倒れそうになり、椅子に寄りかかる。

 クロウが慌てて支えようとする。


「だ、大丈夫ですか。先輩!」

「夜神くん」


 クロウとサヨが同時に声をあげた。


「大丈夫。問題ねえよ」


 シンヤはゆっくり歩き始めた。視界がやけに狭い。


 ――なにか、変だぞ。



 午後も仕事をしているがまったく集中できていない。日頃の習慣と惰性でかろうじて仕事の形になっている有り様だ。

 だが、意識ははっきりしてきた。

 昨夜、シンヤはヒナタと会っていた。そして告白をされた。それは現実だ。


「『残業マン』が好きなの」


 リフレインで頭の中に響くヒナタの言葉。

 桜花ヒナタは夜神シンヤが好きなわけではない。『残業マン』が好きだと言った。

 同じことじゃないかとシンヤは割り切れない。

 ヒナタを抱きあげるのも、キスもすべて『残業マン』のボディスーツ越しだった。

 それが自分自身ではないのは、シンヤが一番分かっている。


 ――それじゃあ『残業マン』は一体誰なんだよ。おれにとって確かなことは夜神シンヤは桜花さんにフラれたってことだ。


 シンヤは椅子に座ったまま、髪の毛をかきむしりたい衝動に耐えた。

 いつの間にか夜の十一時を過ぎていた。

 フロアの人たちもまばらに帰り始めている。

 シンヤは気が付くと、作業端末の電源を落として立ち上がり、フロアを出てエレベーターまでの廊下を歩いていた。


「……がみくん」


 どこかから声が聞こえる。


「夜神くん」


 サヨの声だ。振り向くと帰り支度をしたサヨが立っていた。


「どうしたんですか。今日はちょっと元気ないみたいでしたよ」

「そんなことないよ」

「良い本が見つかったんです。帰ったら読んでゆっくり休んで――」

「いいよ」

「え」

「いいから」


 シンヤは振り向いてエレベーターに向かおうとした。


「夜神くん」


 サヨの声。今度は少し大きな声だ。近づいてくる足音が聞こえる。


「わたし、夜神くんが心配なんです。日に日に元気がなくなっていくし。同期ですから、なんでも相談してください」

「……」


 ビニールの音。カバンから何かを取り出している。BL本だろう。


「ね。これ読んで元気出して」

「もう、いいってば」

「あ!」


 シンヤが振り向いた拍子に右腕がサヨが持つビニール袋を飛ばした。灰色のカーペットが敷かれた床に落ちて中身のBL本をぶちまけた。


「あ……。ごめ……」

「あはは、いいんです。夜神くんは迷惑でしたよね。こんな好きでもない本を無理やり押し付けられたら」

「お、おれ……」


 シンヤの声はほとんど聞き取れない大きさだ。何もできずにただ突っ立っていた。

 サヨはしゃがみ込んで急いで本を拾い集めてビニールで包んでエレベーターに向かって走って行った。


「ごめんなさい!」


 サヨの声は涙に震えていた。

 シンヤは廊下でサヨの背中を見送るだけだった。

 サヨの姿が見えなくなってからシンヤはエレベーターに向かった。

 鐘のような音が鳴って扉が開いた。誰もいないエレベーターの中に入る。

 扉と反対の壁が鏡になっている。シンヤは鏡を睨んだ。鏡の中には『残業マン』が立っていた。


 ――出ていけ!


 右拳で鏡を叩く。

 鏡の中には『残業マン』ではなく、シンヤがこちらに右側に映る拳を突き出していた。鏡の冷たい感触と拳の痛みとともに広がる熱が交じり合うことはなかった。

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