夢の出口
相手チームのディフェンスがクリアミスしたサッカーボールがゴールポストの方に転がっている。
小学六年生のシンヤは全力でボールを追いかける。
だが、シンヤの足の先をボールは転がってゴールラインを割ってしまった。
周りを見ると、シンヤのチームメイトたちが落胆してこちらを見ている。
試合終了のホイッスルの音。試合に負けた。
悔しがるチームメイトたち。涙を拭っている子もいる。
「ねえ。ぼくは全力でやったよね」
子供のシンヤが大人のシンヤにたずねる。小さな自分の目から一筋の涙が零れた。
シンヤは答えることができなかった。
シンヤは幼い頃の記憶に迷い込みながら海浜幕張駅まで歩いて来た。立ち止って明るい駅の入口を眺める。
ここ最近のシンヤは完全に浮かれていた。
週に二、三回会って楽しい時間を過ごしていただけで、ヒナタが自分に気があるのではないかと思っていた。
だが違った。
サヨに関してもだ。以前から気になっていた同期が自分に好意を寄せてきていると、シンヤは思いあがっていた。サヨは心の優しい女性だ。そんなサヨの優しさをシンヤは裏切ってしまった。
もうすべて取り返しがつかない。
シンヤは駅に背を向けて歩き出した。
小さな公園が見えてきた。課長のおじさんとの『残業マン』の修行の場だ。
ここに来るのももう三週間ぶりだった。
シンヤが中を覗いてみると、ブランコに課長のおじさんが座っていた。
「課長」
思わずシンヤは声をあげた。
「やあ、こんばんは。久しぶりだね」
課長のおじさんは相変わらずのおだやかな笑顔をシンヤに向けてくれた。
「毎日ぼくを待っていてくれたんですか」
「うん。最近は仕事が忙しかったのかな」
「ぼく……」
シンヤは公園の入口から中に入れずに突っ立っている。今さらながらヒナタと会うことに夢中で、『残業マン』の修行をすっぽかしていたことに申し訳ない気持ちがある。
課長のおじさんがブランコから立ち上がって近づいて来た。
「どうしたんだい。……元気がなさそうだね」
シンヤは地面を見つめたまま何も答えることができない。課長のおじさんがシンヤの前に立った。
「少しやつれたね。『残業マン』の力をずいぶんと使ったようだね」
シンヤは顔をあげた。
「なんで分かるんですか」
「『残業マン』の力を使うのが楽しくて『
「……」
「『ZSP』を使うと残業の疲れがなくなる。その快感に酔いしれて、どんどん残業して『残業マン』になりたくなる」
「そうです。『残業マン』に変身したあとは気分が良くて。だからあまり寝なくても仕事が出来ていました」
シンヤにとっては『残業マン』への変身後の爽快感に、ヒナタに会っていた時間の多幸感の相乗効果があったわけだが。
「ごめん。わたしがきみへ忠告することを怠っていた。『ZSP』を消費しても残業の身体的疲労は取り除かれないんだよ。気持ちの上だけすっきりしたと錯覚するだけなんだ」
「え……」
「だから、むやみに『残業マン』になることは控えなくてはならないんだ。もしくは体をよく休めることが大切だ」
「そうなんですか……」
「過労状態になると心身に異常を来すのはきみも分かっているだろ。とりあえず、まだきみが無事でよかったよ」
「いや、もう手遅れです」
「え、どういうことだい」
シンヤは公園の中に入ってブランコに腰かけた。課長のおじさんも隣のブランコに座る。
「とりあえずこれでも飲みなさい」
課長のおじさんがシンヤに黄色と黒のラベルのついた栄養ドリンクを差し出した。シンヤは黙って受け取って一気に飲み干した。
朝から何も口に入れていないシンヤの体が栄養ドリンクを勢いよく吸収していくのが分かる。少し意識がはっきりしてきた。
「わたしはきみに早く会いたかったんだよ」
「どうしてです」
「ちょっと前にこの街で大きな事故があっただろ」
「ああ。警官とか何人かが行方不明になったという」
車が炎上してしばらく通行止めにもなっていた。不明点が多い事故だったとシンヤは記憶している。たしか、中間検査の打ち上げで津田沼で飲み会をした日だ。
「以前、きみと一緒に駅で『残業獣』を倒したよね」
「はい。ぼくはほとんど何もしていませんが」
「この町にはまだ『残業獣』がいるんだと思う」
「そいつが事故の原因だと言うんですか」
「うん。わたしの予想が当たっていれば行方不明になった人たちは『残業獣』が食ったのだろう。だとすると、その『残業獣』は『第三形態』にまで進化しているかもしれない」
「なんですか、その『第三形態』って」
「『残業獣』は最初は小さな犬くらいの大きさだと教えたよね」
「それは覚えています」
「いわば、それが『第一形態』だ。わたしが便宜上そう呼んでいるだけだがね。そして、きみが遭遇した四足歩行の猛獣が直立した姿の『残業獣』を『第二形態』と呼んでいる」
「『第三形態』はその先の進化なんですか」
「そう。『第三形態』は完全に人型だ。当然『第二形態』よりも力が増している」
「あれ以上の強さを持っているんですか」
シンヤは唾を飲み込んだ。
「今のきみなら『第二形態』の一体なら戦っても勝てるだろう。だが『第三形態』と遭遇したらすぐに逃げるんだ。いいね」
「課長が戦ったらどうなりますか」
「わたしでも勝てるかどうかは五分五分だろうね。それほどに危険なんだよ」
シンヤはスマートウォッチを見つめた。
しばらくすると、スマートウォッチを外して課長のおじさんに差し出した。
「ご忠告ありがとうございます。でも、これは返します」
「……どうしてだい」
「ぼくには『残業マン』になる資格がありません。それに『残業獣』を倒すために戦うなんて無理です」
「……」
「ぼくは『残業マン』の力がカッコいいと思ったから。女の子にモテるとか、そんな不純な動機しかなくて。みんなを守るヒーローになろうなんて気持ちはないんです」
「それでもいいんじゃないかな」
「それに。それに……」
シンヤの顔の裏に熱い塊がこみ上げてきた。
「『残業マン』になってから良いことなんか一つもないんですよ!」
堰を切ったように涙が溢れた。
「そうか。辛い思いをさせてすまなかったね」
課長のおじさんは優しい声と共に、スマートウォッチをシンヤの手から受け取った。
シンヤはブランコから立ち上がった。ブランコが悲し気な軋み音を立てる。
課長のおじさんはカバンから手帳を取り出してペンで何かを書いて、そのページを破った。
「これはわたしの連絡先だよ。何かあったらいつでも連絡しなさい」
シンヤはしばらくその紙を見つめたあと、手に取ってズボンのポケットに入れた。
課長のおじさんに背を向けて、シンヤは公園の出口に向かって歩き始めた。
「これだけは聞いてほしい。わたしがきみを『残業マン』に選んだのは、きみの『変わりたい』という強い意志を感じたからだよ。それだけできみには十分ヒーローの資格があるとわたしは信じているから」
シンヤは振り向くことなく公園をあとにした。秋風がすっかり冷たくなっていた。
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