モテ期な男

「ざいまーす」

「ういーす」


 いつものように朝の職場の空気は重い。

 みんな昨夜の残業の疲れが抜けきっておらず、青白い顔でゾンビのように自分の座席へと歩いて行く。

 シンヤは一人だけ弾むような足取りで席に着いた。


「根津くん、ごきげんよう!」

「ね、根津くん」


 クロウが素っ頓狂な声をあげてシンヤを見つめる。


「どうしたんですか、先輩。やけに顔色がいいですね。てゆーか、テカテカじゃないっすか」

「そうかい。朝は一日の始まりだよ。シャキッとしないとね。ははは」

「……やっぱり躁鬱だ」


 シンヤにはすでにクロウの声は聞こえていない。

 誰かが小さく背中を丸めた姿勢でシンヤの向かいの席に着いた。サヨだった。


「お! 紅月さん、おはよう」


 シンヤは元気よく挨拶する。


「え、あ、おはよう」


 昨日は無断で休んでいたが、今日は出勤してきた。


「今日はマンガ持ってきてくれた」


 サヨはうつむいたままで何度か頷いた。

 シンヤの周囲が一瞬水を打ったようになった。

 陰キャで通っている女性に公然と親しく話しかける男。そんなシンヤに周りの人間が驚いたのだ。

 しかしシンヤは平気だった。心に余裕が生まれていた。

 なぜならシンヤはこの職場の男連中なら誰しもが憧れている桜花ヒナタと親しい間柄になったのだから。二人だけの秘密を共有しているのだから。


「おう、紅月さん。昨日は具合でも悪かったのか」


 目ざとく北里係長がサヨに近づいて来た。


「えっと、その。昨日は申し訳ございません」


 サヨが立ち上がって頭を下げる。消え入るような声だ。


「休むのはいいけどな、連絡くらいしろよ。みんな心配しちゃうからさ」

「はい」


 北里はここぞとばかりに理解ある上司を演じて見せている。本気で心配なんかしているわけがない。部下の不手際で自分が強羅課長に怒られたくないだけだ。


「そんなことより紅月さんと夜神は仲良しなわけ」


 北里が嬉しそうにサヨに聞き寄る。


「そりゃあ、同期ですから」


 困っているサヨの代わりにシンヤは答えた。


「ほう、同期ねえ。それは結構ですな。にゃはは!」


 北里係長は笑いながら去って行った。

 サヨは真っ赤な顔をして、小動物のような動きで赤いフレームの眼鏡の位置を直しながら席に座った。



 昼休みになってシンヤはクロウを連れてビルの最上階にある食堂に行った。

 空いていた四人掛けのテーブルに着いて、クロウが食事を持って来るのを待っていた。

 携帯端末からコミュニケーションアプリの着信アラームが鳴る。端末を手に取って見ると、ヒナタからのメッセージだった。


〈今日、仕事終ったら会える?〉


 答えはもちろんYESだ。さっそく返事を返した。


「先輩、なにをニヤけてるんですか」


 クロウが食器をのせたトレイをテーブルに置いて、椅子に座った。

 シンヤはいそいそと携帯端末をポケットにしまう。


「いや、なんでもねえよ」

「怪しいですねえ。今朝からテンション高いし。週末に何かいいことありましたね」

「お、分かるかい」


 シンヤは今すぐ誰かに打ち明けたかった。今夜もヒナタとデートの約束をしたことを。


「分かった。競馬で勝ったんでしょ」

「……違うよ」

「あ。じゃあ、スロット。そうでしょ。何か奢ってくださいよ」

「もうおまえには期待しねえよ」

「え!」


 クロウごときには現在進行形でモテている男の胸中を推し量ることはできないのだろう。


「それより、おまえさあ」

「はい」


 シンヤは顔を右に向けた。


「なんで四人掛けのテーブルでおれの隣に座るわけ」

「それがなにか」

「普通、二人組なら向かい合わせに座るだろ。なんで野郎同士でカップルみたいに座ってるんだよ。誰もこのテーブルに寄り付かねえじゃねえか。もしかしたら女子二人組と相席して出会いのチャンスがあるかもしれねえだろ」

「まあ、いいじゃないですか。ぼくと先輩二人、モテない者同士で仲良くしましょうよ」


 嬉しそうなクロウを見て、シンヤは歯ぎしりしたくなった。


 ――おまえの隣の男は反則的な美女と今夜デートをするんだよ。一緒にするな!


 シンヤは喉まで出かかった言葉を押しとどめて箸を手に持った。


「あ――」


 クロウが何かにひらめいたように顔をあげた。


「遂に分かってしまったか。仕方ねえな」

「まさか」

「そう、そのまさかなんだよ」

「先輩、競輪とか始めました?」

「……もう、いいよ」



 シンヤはそわそわした気分で夜の十一時を迎えた。

 相変わらずフロアの人たちはほとんど帰っていない。

 普段なら先頭をきって帰るのが憚られる状況であるが、今日のシンヤは強気だ。作業端末の電源を落として、荷物をまとめる。

 これからヒナタとデートをする。強い気持ちがシンヤにはある。

 立ち上がってフロアを出て行った。エレベーターまでの廊下を歩く。


「あの――」


 わずかに聞こえた声に振り向くと、サヨが立っていた。


「紅月さんも帰るの。お疲れさま」

「えっと、本。持って来たから」


 サヨはビジネス用のリュックから本が数冊入っているであろうビニール袋を取り出した。


「ありがとう。続きが楽しみだったんだよね」


 シンヤはサヨからビニール袋を受け取った。


「じゃあね」

「う、うん……」


 シンヤは数歩歩いてから立ち止って振り向いた。


「紅月さん、駅まで一緒に行く?」


 サヨは嬉しそうな笑顔で頷いた。

 シンヤとサヨは人気のない駅までの通りを歩いていた。シンヤは自分でもまさかサヨに声をかけるとは思ってもいなかった。しかもサヨも笑顔で受け入れてくれた。

 まさか、紅月サヨは――。

 なんだか最近、シンヤの周りに女性が近づいて来ている。

 カノジョ持ちの男や既婚者の男がモテる理由が分かったような気がする。それは女性に対して余裕があるからではないだろうか。変に構えることもなく、心の壁が取り払われているからだろう。つまり自信がにじみ出ているのだ。

 これがいわゆるモテ期というやつか。

 課長のおじさんにスマートウォッチをもらったのがきっかけだったのかもしれない。『残業マン』になった自分に自信が芽生えたのだろうか。


 ――そういえば。課長、今日も公園で待っているのかな。


 でも今夜はヒナタとの約束がある。『残業マン』の修行よりも優先事項だ。


 ――課長、ごめんなさい。


 今日も勘弁してもらおう。


「夜神くん、無理して読んでくれてませんか」


 隣を歩くサヨが前方に目を向けながら呟いた。


「そんなことないよ。正直、最初はBLに抵抗あったけど、同性の恋愛ってなんか純粋というか本質的だよね」

「そ、そうなんですよ!」


 サヨがシンヤの方を向いた。


 ――はうあっ!


 シンヤの腕にほど良い弾力と柔らかい感触。サヨの推定Fカップの胸が当たったのだ。

 サヨはそのことに気づいていないのか、オタク特有の早口でBLの魅力をまくし立てる。


 ――お、おぱっ、おっぱい。


 シンヤの心の中は動揺しまくりでサヨの言葉が頭に入って来ない。それほどのサヨのバストの破壊力だ。

 サヨがシンヤの顔を見て嬉しそうに話している。


 ――笑顔は可愛いよな。


 桜花ヒナタは誰もが認める美女だ。でも、紅月サヨにはシンヤだけが気が付いている魅力があるような気がした。

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