シフクノトキ

「なんじゃあ、ワレ」


 威嚇しつつも、黒服の男は後ろに下がって行く。目の前に得体の知れない全身ボディスーツのシンヤが容赦なく近づいてくるのだから仕方ない。


「お、おどりゃあ!」


 ひきつった顔の黒服は遂に耐えきれなくなったのか、シンヤに殴りかかってきた。

 シンヤは右手を上げる。

 目の前の黒服の姿が消えた。


「あれ」


 黒服の声が真上から聞こえた。

 五メートルほどの高さに浮いている。シンヤが投げ上げたのだ。

 通りの両脇に街灯が等間隔に並んで立っている。上部は弧を描く形状で通りの内側にせり出している。

 一本の街灯のせり出して地面とほぼ並行になった部分に黒服がうまく乗っかった。体の重心のせいで、すぐに背中が下になるように回転して手と足でぶら下がる格好になった。


「ひいっ。た、助け……」


 街灯にぶら下がった黒服から喉を引き絞るような声があがった。

 地上から呆然と口を開けて見上げていた残った黒服二人は、我に返って慌てふためく。


「け、警察に連絡を」

「サツを呼んでどうすんじゃい」

「じゃあ、梯子」

「そんなもんあるかい!」


 シンヤはヒナタの手を握った。


「行こう」


 ヒナタを引っ張った。最後にシンヤは黒服たちを見た。


「風邪ひくなよ」

「なんで、ドリフ」


 黒服の一人の呟きを無視して、シンヤとヒナタはその場をあとにした。

 角を曲がって黒服たちから見えなくなってから、シンヤは変身を解除した。ボディスーツは瞬時に灰のようになって風に流れて粉々になって消えた。


「ねえ、見た。あいつらの慌てたとこ。サイコーじゃない?」


 後ろからついて来るヒナタが大袈裟と言えるくらい声をあげて笑っていた。

 正直言って、シンヤはあまり気分が良くはなかった。『残業マン』のパワーを人間相手に使えば無敵と言っていい。課長のおじさんとの修行のおかげでシンヤの『残業マン』としての技も力も成長している。


 ――このパワーはチンピラごときを相手に使うものではないな。


 不意に握っていたヒナタの手が離れた。ヒナタの方から引き抜いた感じだった。


「あ、とっさのこととはいえ、手を繋いでしまってごめんなさい」


 シンヤは頭をかきながら振り向いた。

 ヒナタがしゃがみ込んでいた。

 口に手をあてて、細い肩が小刻みに揺れている。


「桜花……さん」


 嗚咽が聞こえる。ヒナタは泣いていた。


「終わった……。やっと……終わった」


 ヒナタの丸めた体から漏れて来る声はなんとか聞き取れた。

 親の借金を返すために風俗でまで働いていたのだ。しかも、平日の日中帯はシンヤの会社で働きながらだ。職場では可憐な立ち振る舞いで周囲の人を明るい気分にさせてくれていた。

 シンヤからしたら想像を絶する苦労だったのだろう。

 ここ最近の短い期間にヒナタはシンヤに様々な姿を見せた。だが、こうして震える小さな背中を見下ろしていると、ヒナタはただ単に一人のか弱い女性なのだと分かる。

 シンヤは『残業マン』の力で、ほんの少しだがヒナタを苦しみから救い出すことに協力できたのかもしれない。それは力の使い方としては悪いことではないと思えてきた。


「『Regainゲイン』」


 シンヤは再び『残業マン』に変身した。

 ヒナタの体を抱き上げた。


「え、ちょっと」

「少し目を瞑ってて」


 シンヤはヒナタを抱き上げたまま跳んだ。


「目を開けて」

「え……。キャー!」


 二人は五反田の上空に浮いていた。正確に言うと、飛び上がって下降する途中だった。


「よく見て」


 すこし間があってからヒナタは声を発した。


「……きれい」


 眼下には五反田を中心とした輝く東京の夜景が広がっていた。まるで黒い絹の上に宝石をぶちまけたようだ。

 ヒナタがシンヤにしがみつくように抱き着いてきた。

 シンヤはビルの屋上に着地した。


「次はどこに行きたい」


 シンヤに抱かれたままのヒナタがしばらく周囲を見渡す。


「あっち!」


 身を乗り出して指をさした。その声はいつもの、いやこれが素なのか、無邪気なトーンだった。


「よし! 行くよ」

「きゃー!」


 二人はビルの屋上から飛んだ。



 五反田から少し離れたビルの屋上にヒナタの笑い声が響いている。


「あー。こんなに楽しかったの久しぶり」


『残業マン』の変身を解除したシンヤは喜ぶヒナタを微笑ましく眺めていた。

 ヒナタは風に吹かれて頬に張り付いた髪を何度も白くて細い小指で耳にかけていた。


 ――綺麗だ。


 シンヤの心に空いた隙間が埋まっていく感覚があった。


「ねえ、夜神さん。また夜景を見せてよ」

「もちろん。いつでも」

「じゃあ、また連絡するね」

「うん」


 ただ一人の女性を守るために『残業マン』の力を使うのも悪くないのではないか。そう考えるシンヤだったが、今はこの時間がいつまでも続くことを願っていた。

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