第三章

崩壊する日常

〈先輩、なんだか元気なさそうですね〉

〈そうか〉

〈つい数日前までは自信がみなぎっていたのに〉

〈そうかなあ〉

〈そうですよ。あ!〉

〈なんだよ〉

〈そういうの躁鬱病そううつびょうっていうんですよ! 元気になったり落ち込んだり。この業界にはそうなっちゃう人多いみたいですよ〉

〈勝手に人を病人にすんなよ〉


 クロウが言うように、この業界にはうつになる人が多いことは確かだ。

 いつだれが病気になってもおかしくはない。

 IT業界は過度な労働が多くなる傾向があるのと、日々進歩する技術に追いついて行かなくてはならないストレスにも原因があるらしい。

 仕事の効率化を図るツールやシステムがいち早く取り入れられる業界でもある。

 仕事のスピードは速くなる。ただし、人間がそのスピードについて行かないといけない。

 人間の仕事を便利にするはずのツールが、人間をさらに仕事に縛り付けてしまうという皮肉な現実があるのだ。

 そんなことより三日前だ。

 シンヤがヒナタにこっぴどく嫌われた夜。

「ホテルスプリングス幕張」の一室の窓が突然割れたのだ。シンヤが割ったのだが。

 そのあと、パトカーや消防車が駆けつけてホテル周辺はしばらく騒然としていた。

 シンヤは仕方なく、こっそりと予約した部屋に宿泊した。

 翌日は恐る恐る職場に出勤した。あの状況のあとでも習慣のように出勤するのが、社畜であるシンヤの悲しいさがだ。

 だが、拍子抜けするほど、いつも通りの職場だった。

 先に出社していた強羅課長も今日は朝いちから怒号を発することもなく、自分のデスクで静かに端末を操作している。


 ――当たり前だが、昨日のボディスーツがおれとは気づいていないか。


 いや、しかし何かがおかしい。

 ようやく気づいたのはクロウが出勤してしばらくしてからだ。


〈昨日の夜、スプリングスで何かあったんですか。先輩は昨日泊まったんですよね〉

〈いや、なにも気付かなかったな。シャワーを浴びてすぐに寝ちまったから〉


 昨夜、「ホテルスプリングス幕張」で何かがあった。

 パトカーが何台か来ていた。

 フロアの連中がそんなことをまことしやかにささやく程度だった。

 ネット検索しても千葉県のローカルニュースにもなっていない。


 ――ニュースになるほどのことではなかったのか。


 強羅課長の兄弟は医者や弁護士というエリート一家だと聞いたことがある。もしかして昨夜の件を警察かマスコミを動かしてもみ消したのか。

 それはシンヤの考えすぎかもしれない。

 とにかく、その日は何事もなく一日が過ぎていった。もちろん残業はしたが。

 そして三日後の今日。

 相変わらず何も変わらない日々が続いていた。

 桜花ヒナタはどうしたのか。

 シンヤはヒナタに変身能力を明かしたのだ。ヒナタは誰かにそれを話しているのか。

 どうやらそれはなさそうだった。

 この三日間でこのフロアに本社のヒナタから何度か電話がかかって来ている。

 これまで通り、強羅課長が鼻の下を伸ばしてヒナタと電話で雑談をしていた。

 ヒナタは強羅にもシンヤのことを話していないようなのだ。そして普通に仕事をしている。どういうわけなのか。


 頭の片隅に混乱したものを抱えながら、シンヤは気づくと夜十一時過ぎの幕張駅のホームに立っていた。

 シンヤが立っている辺りには人はいない。

 自動販売機が煌々と光を放っている。

 その奥はホームの端で暗くてよく見えない。

 数日前にこの駅で駅員が行方不明になっていたことを唐突に思い出す。ネットの記事になっていた。

 ふと、左腕に巻いたスマートウォッチに目をやる。

 あれは、課長のおじさんからスマートウォッチをもらったのと同じ日の深夜に起きた事件だったらしい。

 スマートウォッチを操作して『ZSP』の表示にする。円形のゲージが一杯になっていた。『Re・gain』の刻印がオレンジ色に点滅している。

 ここで「『Regainゲイン』」と言葉を発すれば、シンヤは変身できる。超絶なパワーを自由に使うことができる。

 だけど、それがなんの役に立つというんだ。

 憧れの女性にこっぴどく嫌われた。

 それだけではない。シンヤにとって桜花ヒナタは神聖な存在だったのだ。ヒナタの本当の姿を知ったことでシンヤにとっての大切ななにかが失われたのだ。

 こんな力を使っても世間のルールから逸脱した奴を軽く懲らしめるのが関の山だ。


 ――変な力を手に入れてしまったからだ。


 シンヤは手首からスマートウォッチを外した。


「こんなもの!」


 地面に叩きつけようと腕を振りかぶる。

 そこでシンヤの動きが止まった。


 ――なんだ、あれは。


 ホームの端にある柵の手前。闇の中に何かがいる。


 ――動物か。


 大きかった。体長は二メートルを超えている。

 シンヤは目を凝らす。

 動いている。歩いているようだ。近づいて来る。

 熊やゴリラを想像したが、首都圏で動物園以外にそんな動物がいるはずがない。

 その巨体が自動販売機の灯りが届く範囲に入ってきた。

 むき出しの内臓を思わせる朱色の肌がわずかに光沢を放っている。

 背中のあたりが異様に発達した筋肉であるかのように盛り上がっている。足は膝が曲がって前に突き出ている。四足歩行の大型肉食獣が二足で立ち上がったような姿勢に見える。

 異形――。


「ロロロ……」


 動物というより獣が喉を鳴らすような音。

 丸太のように太い手足を振って大型肉食獣のように軽やかに二足歩行で近づいてくる。

 人間以外にこれほど違和感なく二本足で歩く生き物はこの世に存在しないはずだ。

 前後に長く後頭部が膨らんだ頭部。そこから触手のような器官が十数本背中に垂れ下がっている。

 凶悪な顔をしている。牙を光らせて笑ったように見えた。

 シンヤは本能的にスマートウォッチを左手首に巻いた。

 刹那。異形の生物がシンヤに向かって駆けだした。


「リ、『Regainゲイン』!」


 瞬間的にスマートウォッチから黒い液体がにじみ出るように手や腕を包んで肩の方に広がりボディスーツになった。

 目の前に異形が迫っている。


「は、速――」


 シンヤの腹部で何かが爆発した。

 異形が拳を下から突き上げた。

 屋根。夜空。

 激突。

 鉄板が破れる。

 夜空。街並み。ホテルスプリングス幕張。

 ホーム。コンクリート。

 落下。ベンチ。

 激突。

 破壊。

 シンヤは異形に殴られてボールのように弾んで、雨よけの天井にぶつかってから落下してホームのベンチに叩きつけられた。その間に様々なものが視界に入ってきた。

 ベンチをホームのコンクリートに固定していた片側のボルトが外れて、残ったボルトを中心に円を描くように滑った。

 雨よけの屋根も大きく凹んで破れている。

 異形の生物の拳により恐るべき力の殴打。

 シンヤはうつ伏せに倒れたまま動かない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る