勇敢なる恋
変身したシンヤはホテルの屋上に立っていた。
さすがに十四階の屋上にひとっ飛びで到達することはできなかったが、壁面に張り出した窓やオブジェの凹凸を使ってフリークライミングの要領で容易に登りきることができた。
――さて、見つかるか。
シンヤは屈んで屋上の床に耳をつけた。
意識を集中すると様々な音が聞こえてくる。
エレベーターの駆動音、足音、食器同士が触れ合う音、子供の泣き声、宴会の騒ぎ声。
まさにセンサーだ。このボディスーツは万能だ。
シンヤは根気よく音を聞き分ける。
ヒナタが今にも助けを必要としているのかもしれないのだ。
その時――。
「だめです……強羅課長。……ちょっと……強引です」
「へへ、いいじゃないか……」
間違えようがない。明らかにヒナタと強羅の声。
「見つけた!」
シンヤは大きな声をあげた。
しかもこれはシンヤが危惧していた事態がすでに始まっているのではないか。
「どこだ!」
シンヤはさらに意識を集中する。
ホテルを構築する鉄筋コンクリートの中をシンヤの意識が輝く光線となって幾何学模様を描くように深く入り込んで行く。
意識の光線はいくつにも枝分かれして建物全体を走査する。
その内の一本が一つの部屋に到達した。
ヒナタと強羅の息遣い、衣擦れの音、ベッドの軋み音がより鮮明にシンヤの耳に入ってきた。
――七階か。
理解するよりも早く体が動いていた。
七階の一室の窓が外から突き破られた。
男女の悲鳴があがる。
涼しい風にカーテンが大きく波を描くようにはためいていた。
全身黒、筋肉を強調するように稲妻のように黄色い模様の入ったボディスーツを着たシンヤが窓際に立っていた。
「な、なんだ」
強羅課長が目を見開いたまま唇を震わせて、かろうじて声を発した。
ヒナタも唖然とした顔でシンヤを眺めている。
二人はベッドから上半身を起こした姿勢で並んで座っていた。
ヒナタのベージュのスーツの右肩が少しずり落ちているが、衣服は身につけている。
強羅もワイシャツの第二ボタンを外している程度だ。
――間に合ったようだな。
しかし状況的にはシンヤが恐れていたことが起きようとしていたのであろう。
シンヤはゆっくり室内を歩いてヒナタに近づいた。
「あわわ」
強羅が悲鳴ともつかない声を上げているが、それは無視する。
「いやあ!」
シンヤはヒナタを抱き上げた。
しかしヒナタは両足を振って悲鳴をあげている。
「助けに来ました」
「え」
嫌がるヒナタの耳元でシンヤが囁くとヒナタの動きが止まった。
ヒナタのバッグとコートも拾い上げて、シンヤは窓際に戻った。
カーペットの上に散乱している窓ガラスの破片を踏みしめる。
シンヤは窓枠に右足をかけた。
風が吹き込む窓の外に広がる夜の空を見渡す。眼下にはぽつぽつと街明かりが見える。
――おれの力は万能だ。
振り向いて部屋の中を見る。
ベッド上でぐったりと座っている強羅課長がいる。
シンヤは悪の魔王から姫を救い出した勇者の気分だった。
「風邪ひくなよ」
「ドリフ……」
強羅課長の呟きのあとに、シンヤはヒナタに顔を向ける。
「少し目を瞑っていてください」
「な、なに」
シンヤは背中から倒れるように窓の外に身を投げだした。
「ちょ、ちょっとー!」
悲鳴をあげ続けるヒナタを抱いたまま、シンヤは空中で体を一捻りして後方に一回転しながら落下した。
「あはは」
夜空と街明かりが視界の中でひっくり返る。
ヒナタの香りを身近に感じる。気持ちがいい。
そして見事に門柱のてっぺんに着地した。
足をのせた部分の門柱の一部が、シンヤたちが落下してきた衝撃で粉砕した。
「おっと」
門柱から飛び降りた。抱きかかえていたヒナタをそっと地面に立たせる。
ヒナタは信じられない顔で呆然としている。
「大丈夫ですか。危ないところでしたね」
「あなたは……」
「夜神シンヤ
「え? 夜神……さん?」
シンヤは変身を解除した。ボディスーツは剥離して塵となって消えていった。
「分かってしまいましたか」
「だって、いま名前言ったし」
「安心してください。桜花さんはおれが守ります」
ヒナタの表情がじょじょに落ち着きを取り戻してきた。気のせいかそのまま険しい顔になっていく。
「ちょっとあんた何してくれんのよ!」
今まで見たことのないヒナタの様子にシンヤは凍りついた。
「正社員になれるチャンスだったのよ!」
「え。ど、どういうことで」
シンヤは言葉をようやく絞り出した。
「強羅課長とヤれば正社員にしてもらえる約束だったの。あんたのおかげで計画が台無しだわ」
「そんなことのために課長と寝るんですか」
「はあ! そんなの当たり前じゃない。お安いもんでしょ。まあ、あんたみたいなプロパーさんには分からないでしょうけどね」
「でも、それは間違っていると思います。あんな中年男と桜花さんが」
シンヤは俯いたまま呟いた。なんとなくヒナタの顔を見ることができなかった。
「あんた童貞なの。なにも間違っていないわよ。わたしには必要なことなのよ」
ヒナタの声の最後の方は少し小声ではあったが、断固たる決意がこもっていた。
シンヤの手からヒナタが自分のバッグとコートをひったくるように取り返す。
「あーあ、こんな時間じゃ終電もないじゃん」
「送っていきます」
「結構です。タクシーで帰りますから」
ヒナタは早足で夜道を歩きだした。数歩歩いて振り返る。
この状況でシンヤは少し期待した。やはり送って行ってほしい、と言ってくれるのか。
「てゆーか、あんたがやったこと器物破損だから。犯罪だから」
それだけ言うと足早に歩き去ってしまった。
シンヤは茫然自失で暗がりに立ち尽くしていた。
美人がキレると本気で怖い。今夜のシンヤは大切なことをひとつ学んだ。
つまるところ、シンヤはヒナタに嫌われたのだ。それもこっぴどく。
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