打ち明けたい
今日は朝から強羅課長の機嫌が良い。
対照的に社員たちは連日の残業による疲労で、すでに青白い顔をしたゾンビの一団のようであった。
〈先輩。最近顔色いいっすね〉
〈そうか〉
〈なんだか自信にあふれているような〉
いつものプライベートチャットでのクロウとの会話。
〈あ! まさか先輩、ぼくに内緒でカノジョができたんじゃ〉
〈どこにそんな出会いがあるんだよ。それにもしおれにカノジョができても、いちいちおまえに報告する必要はない〉
〈冷たいなあ。でも先輩どこか変わった気がするんですよねー〉
後輩である
シンヤは変身能力と超絶パワーを手に入れたのだ。自己肯定力が高まっているのを自分でも実感している。
変身能力のことが言いたくて喉まで出かかっている。声高に誰かに自慢したい。
――クロウに打ち明けるか。いや、男に言ってもしょうがない。しかも、こいつは決して口が固い方ではない。却下だ。
どうせ打ち明けるなら女子だ。明らかにモテるチャンスを潰すわけにはいかない。
女子――。
シンヤは向かいに座るこのフロア唯一の同期である
ふっくらとした顔の頬をぷっくりとふくらませてディスプレイとにらめっこをしている。
――うーん。どうせならおれの手が届かないような高嶺の花を狙いたいよな。
強羅課長のどら声でシンヤの心は現実に引き戻された。
「おい、おまえ何やってるんだ」
機嫌が良くても強羅課長が手に負えないことは変わらない。
また一人。
BPとは上位の会社から仕事を請け負っている会社とその社員の両方を意味する。ここで言う上位会社はシンヤの会社になる。シンヤの会社の仕事をしているが、他の会社だ。
対して、業界ではシンヤたちの立場をプロパーと呼ぶ。
システムを発注するお客様からシンヤの会社がお仕事をもらう。開発規模が大きいプロジェクトになるとシンヤの会社の社員だけでは人数が足りなくなるので、さらにBPに仕事を請け負っていただき、技術者を提供してもらうのだ。
つまりお客様から見たらシンヤの会社が一次請けであり、BPが二次請けということになる。
これが日本のIT業界の多重請負構造である。
なぜ多重なのか。それはBPにはさらに下請けの会社、BPのBPがあるためだ。
どこまで下請けの連鎖がつながっているのかはシンヤには把握できていない。
この多重請負構造が、世界から比べると日本のIT業界の成長を妨げている一因であるという識者は多い。
人員構成上、シンヤの会社(一次請け)はプロジェクト管理、マネージメントが主な仕事になる。
実際の設計、プログラミング、テストなどはBPが主として行うことになる。さらに二次請け会社が設計、三次請け会社から先がプログラミング、とより細分化の傾向が発生する。
この状態がひどくなってくると、プロジェクト全体でひとつのシステムを開発しているが、システムのすべてを理解、把握している者が一人もいないという致命的な欠点が生まれる。
簡単にまとめてしまうと、開発の効率も落ち、品質の低いシステムしか完成しないことになる、ということだ。
ちなみにクロウとサヨはシンヤと同じくプロパーである。
強羅課長に捕まった新人BPくんはおどおどしている。
「えっと。あの……」
多重請負構造の弱点である、「自分が今行っている作業の本質的な意味を理解しづらい」というあからさまな事態だ。しかも彼は新人だ。リーダーあるいは先輩の指示通りの作業しかしていないはずなのだ。
「なんだ。自分のやっていることが説明できないのか」
強羅課長が笑顔で凄む。
「……はい。すいません」
「おーい、
新人BPくんは俯いて動かなくなってしまった。
――くそ。
シンヤはいたたまれない気持ちになる。
プロパーであるシンヤはキャリア的にもそろそろマネージメント方面のスキルを高めて行く必要がある。その方が出世も早い。
だが、シンヤは技術スペシャリスト指向が高いので、BPの人たちと一緒に泥臭い作業をすることを率先して行っていた。
だから強羅課長に絡まれた新人BPくんの気持ちが痛いほど分かるのだ。
――おれの変身能力を使えば、強羅課長の奴だって懲らしめることができるのに。
スマートウォッチを見る。
『ZSP』のゲージは完全な円を描いていない。黄色の『gain』の刻印が点滅しているだけだ。
この状態では変身できないことは経験的に理解している。
変身できるのは決まって仕事が終わった以降の時間帯だ。
もっとも職場でいきなり変身するわけにはいかない。
「はい! ただいまあ」
居酒屋店員のような元気のいい返事は北里係長だ。
北里係長は上品なスーツを身につけ、おしゃれに口ひげを整えている。喋りが達者で、人を楽しませるのも得意だ。この業界には珍しく一見ダンディな陽キャである。
だがシンヤは知っている。北里係長の得意技は「
部下には、「責任はおれがとるから好きにやれ」とかっこいいことを言っているが、いざ強羅課長に失敗を問い詰められると巧妙に部下に責任をなすり付けるのだ。
強羅課長と北里係長がすれ違う。
シンヤには二人の小声の会話が聞こえてしまった。
「あいつは使えねえな」
「分かりました」
北里係長が軽く頷く。
新人BPくんの運命は決まった。
近いうちにプロジェクトから退出することになるだろう。
いつでも替えのきく労働力。それがBPの厳しい現実だ。
「なによー。最初にちゃんと説明したろう。もう一回説明してやるからしっかり覚えような」
北里係長がひときわ明るい声で新人BPくんの席に向かって行った。
シンヤはその様子を見て奥歯を思い切り噛みしめていた。
強羅課長の機嫌が良いからといってまったく油断ができないのは、先の出来事のとおりだ。
では、なぜ課長は機嫌が良いのか。
午前十時半を過ぎた頃――。
「おつかれさまでーす」
可愛らしい声が音楽のようにフロアに響き渡った。
首のあたりでそろえたショートヘアをかきあげるスタイルでまとめておでこを出している。
小さなその顔はモデルそのものだ。誰もが認める美人だろう。
ファッション誌から飛び出して来たようなベージュの膝丈スカートのスーツスタイル。
彼女が通り過ぎたあとには良い香りが残る。デパート一階の化粧品フロアで売っているような高級なシャンプーかトリートメントだろうか。それとも流行りのフレグランスだろうか。きっとその両方に違いない。
この業界では感じることがない美女オーラが溢れている。
毎月の月初に本社から事務処理をしに来る
シンヤにとっての高嶺の花が現れた。
そして強羅課長の機嫌が良いのは、今日がヒナタが来る日だったからだ。
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