美しい人よ

「あはは。さすがですねー」

「すごいー、強羅課長ー」

「知らなかったあー。やあーだあー」


 フロアに時折ヒナタの華やかな声が奏でられる。

 そのたびに男たちの耳がダンボになっているに違いない。

 なぜならシンヤ自身がそうだからだ。


〈いやあ、先輩。あの声たまりませんね〉


 クロウからのチャットだ。


〈まるでキャバクラだな〉

〈え! 先輩、キャバクラ行ったことあるんですか。ずるいな。ぼくも連れて行ってくださいよ〉

〈落ち着けよ。行ったことねえって。イメージだよ、イメージ〉


 しかし、シンヤの喩えはあながち間違ってはいない。

 強羅課長のプロジェクトはわざわざ本社から離れたこの海浜幕張の雑居ビルの一フロアを借りてオフィスにしている。

 お客さんの社屋に近いというのがメリットであった。

 本来であれば諸々の事務処理は本社で行う必要があるのだが、強羅課長は桜花ヒナタを毎月呼び寄せて処理を済ませていた。

 ヒナタは事務職の派遣社員。

 正当っぽい理由でこのフロアに外出してきてはいるが、ほぼ課長の接待をしているようなものだ。

 強羅課長のなかば職権乱用と言ってもいい。

 だが、傍から見た感じヒナタ自身には嫌がっているような素振りはない。


〈しかし桜花さんは反則ですよねえ〉

〈どういうことだよ〉

〈いや、うちの業界にはいないタイプの女性じゃないですか。見てくださいよあのスタイル。反則的な美しさですよ〉

〈じろじろ見るんじゃねえぞ〉

〈あんな人がカノジョだったらなあ〉


 反則というのは良い表現だ。


〈身分をわきまえろ。桜花さんとおれたちは所詮住む世界がちがうんだよ〉

〈将来は若手IT社長あたりに玉の輿ですかねえ〉


 シンヤは強羅課長の隣の席に座るヒナタの端正な横顔をそっと見つめた。



 昼休み――。

 社員たちがまばらに最上階の食堂に向かってフロアを出ていく。


「先輩、今日は上に行きますか」

「いや、下の喫茶店にしとくわ」

「じゃあ、ぼくは上で。腹減ったあ」


 このビルには食事をとれる場所が二箇所ある。

 ほとんどの人はお昼限定で使用できる最上階の大食堂に行く。そしてもう一つが、三階にあるこじんまりした喫茶店だ。

 喫茶店の方はたいした食べ物はないが、人が少なくて静かに過ごすことができるので、シンヤはたまに利用している。

 今日はなんとなく喫茶店でのんびりしたい気分だった。

 椅子から立ち上がると、向かいの席のサヨがバッグからカロリーメイトと本を取り出している。


「紅月さんはいつもカロリーメイトだね。それでよく残業時間までもつね」

「すぐに太っちゃうから、わたし」

「ふーん」


 シンヤとしてはそれほど気にすることはないように思うが、女心とやらは繊細なのだろう。

 にこにこして本を読みながらカロリーメイトを頬張るサヨをそっと残して三階の喫茶店に向かう。

 ラッキーなことにかなり空いていた。

 向かい合わせで椅子が二脚おいてある小さなテーブル席に着く。

 お決まりのエビピラフを注文した。

 しばらく窓の外をぼんやりと眺める。

 巨大な建造物に雑に切り抜かれた青空。そこに飛行機雲が一本走っていた。


「今日は早く帰れるかなあ」


 店員さんがピラフを持ってきた。

 電子レンジで加熱しただけの冷凍食品だと明らかに分かる。そのくせそれなりに値段は高い。

 まあ、この落ち着つくことができる場所代だと思えば許すことができる価格だ。

 シンヤは薄黄色に染まった米をスプーンですくって口に入れる。


「ここ空いてます」


 シンヤはスプーンを咥えたまま顔をあげた。

 そこには高嶺の花である桜花ヒナタが笑顔で立っていた。


「夜神さんとご一緒してもいいかしら」


 米を噛まずに飲み込む。


「ど、どうぞ」


 これは夢か。ヒナタがシンヤの向かいの席に座った。

 ヒナタから良い香りがほのかに漂ってくる。

「美人は三日で飽きる」と人は言う。だが、シンヤはそれは違うと実感した。あるレベルの美しさを超えると毎日見ても飽きない、と。シンヤにはその自信がある、と。

 ヒナタは店員にクリームパスタを注文した。


「強羅課長と一緒に食堂へ行かなかったんですか」

「外で一人で食べるって嘘ついちゃったんです」

「え」

「だってずっと強羅課長の相手するの疲れるんですよ」

「それは分かります」


 ヒナタは「ですよねえ」と嬉しそうに笑った


「今日もしつこいんですよ。うちの社員の中で一番好みのタイプは誰だって」


 シンヤのフロアには六十人ほどの従業員がいるが、プロパーの社員は十人だ。

 それはシンヤにとっても気になる。

 まあ、強羅課長は自分だと言わせたかったのだろうが。


「誰って答えたんですか」

「夜神さん」


 ヒナタは悪戯っぽい笑顔で上目遣いにシンヤを見た。


「ええ! ほ、本当ですか」

「でもあくまであのフロアの社員の中から選んだらってことですよ」


 嬉しい。それでもシンヤは天にも昇りたい気分になった。


「そ、そうですよね」

「やだあ。夜神さんわたしに敬語は使わないでくださいよー。正社員のプロパーさんなんだし」

「え、でも。桜花さんの方が社会人としては先輩ですから」

「あはは。夜神さんて真面目なんですねー」


 シンヤはこちらを見つめるヒナタから目をそらす。


「夜神さんてM大卒業ですよね。頭いいんですね」

「よく知ってますね」

「事務職って社員さんの経歴とか簡単に見れちゃいますから。本当は内緒にしなくちゃいけないんですけどね」


 ヒナタは片目をつむって笑った。


「一浪してるし、それほどでもないですよ」

「そんなことないですよー。わたしなんて頭の悪い短大でした」

「でも、今はこうして立派に働いているじゃないですか」


 一瞬、ヒナタの顔から笑顔が消えたように見えた。だがすぐに笑顔に戻った。


 ――気のせいか。


 微かな違和感はシンヤの心をすぐに通り過ぎた。


「わたしは夜神さんより社会人としては一年先輩だけど、年は三歳下なんですよ」

「え、そうなんですか!」

「そこ驚くところですか」

「てっきりタメか年上だと思っていたから」

「ちょっとー。それ失礼なんですけどー」

「ご、ごめんなさい」


 二人は大笑いした。シンヤはヒナタとの距離が一気に近づいたような気がした。

 ヒナタが注文したクリームパスタがテーブルに置かれた。

 髪を耳にかけてからヒナタはゆっくりとパスタを口に運んだ。

 その仕草が妙に色っぽかった。


「これってレンチンですよね」


 パスタをフォークで指しながら、ヒナタが少し顔を近づけて小声でささやく。


 ――チ、チン! こんなお美しいお顔が「ちん」なんて卑猥な言葉を発するなんて。


 ヒナタがパスタを静かにすする。

 シンヤの目がその口元に吸い寄せられる。

 うすい光沢のある唇にクリームがわずかに滲んだ。


 ――ああ、白濁のクリームが可愛いお口にねっとりと。


 ヒナタが目を上げた。彼女に見とれていたシンヤと目が合う。

 少し首を傾げてヒナタは優しく微笑んだ。

 シンヤは完全にハートを射抜かれた。


 ――決めた! おれは桜花さんのヒーローになる!

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