第二章
夜神シンヤマン
「おい! おっさん。誰がスマホで女といちゃついてるってえ」
「わ、わたしはそこまでは言っていない。もう少し小さな声で話してくれないか、と言っただけだよ」
「だからよお! おれは彼女と愛を育んでいたわけ。それを邪魔されちまったんだよ。わかってんの!」
「それは知らなかったから……。ぐぐう……」
ビジネススーツの男二人が電車の中で言い争いをしている。
いや、一方的に若い男の方が年配の男にいちゃもんをつけていた。
若い男は社会人一年目が着るリクルーターのような初々しいスーツを着ているが、だらしなく着崩していている。後ろに流した茶髪をカチューシャで押さえていた。
年配の方は眼鏡をかけた四十代くらいで生真面目な雰囲気を醸し出していた。
若い男が年配の男の首に右腕をあてて電車のドアに押しつけていた。
年配の男は革の鞄を抱きかかえるように立っている。首を圧迫されているのでくぐもった声をあげていた。顔が汗ばんで苦しんでいる。
遅い時間の東京メトロは混んでいるが、この状況に介入する人はいない。みんな見てみぬ他人のふりだ。
自分だけが無事にその日を終えることができれば良い。それが都会での賢い生き方なのであった。
「土下座しろよ。おっさん。なあ!」
「な、なんで……わたしが謝らなければ……。ぐぐう……」
「なんだって。聞こえねえよ。もごもご言ってんじゃあねえよ」
同じ車両に乗り合わせた乗客の思いはひとつだろう。
早く次の駅に到着してほしい――。
電車から降りてしまえばもう自分とは関係がない。気の利いた人がいれば駅務員を呼びに行くかもしれない。無事な一日が乱されることなく続くのだ。
シンヤは二人の男のいざこざを反対側の向かいのドアに寄りかかって見ていた。
左手をあげて、手首に巻いているスマートウォッチに目をやる。
『ZSP』の画面のゲージが完全な円を描いてオレンジ色に光っていた。
そして『Re・gain』の刻印もオレンジに輝いている。
「『
シンヤが呟いた。
スマートウォッチから黒い液体が
山手線で初めて変身してから一週間が経っていた。シンヤの予想どおり、スマートウォッチが変身のアイテムだったのだ。
『ZSP』のゲージが完全な円を描いた時に、シンヤが「『Re・gain』」と声を発すると変身が始まることが分かった。
瞬く間に、シンヤの全身を黒いボディスーツが包んでしまった。黄色いカラーリングが強靭な筋肉を際立たせるように入っている。その間、一秒も経っていない。
もちろんシンヤの変身に気づいた者はいないはずだ。
シンヤは若い男に近づいた。
ボディスーツの力を得たシンヤはまったく怖さを感じていなかった。目の前の若者に比べれば、山手線のロドリゲスさんの方が百倍は怖かった。しかもその仲間にはナイフを持っている奴もいた。だがシンヤは怪我ひとつなく奴らを懲らしめたのだ。
年配の男を押さえている若者の右腕を掴んだ。
「おい、何すんだ……。え……」
若い男はシンヤの姿を見て呆然としている。
「え、なに? コスプレ」
「本格的すぎねえ」
「でもちょっとかっこいいかも」
「どこから出てきたんだ」
周りの乗客たちからそんなひそひそ声が聞こえる。
「なんだ、あんた……」
若い男がシンヤにたずねた。
「おれにもうまく今の自分のことを説明はできない」
「じゃあ消えろや。グッバイ」
「まあ、なんだ。目上の人と年上の人はとりあえずリスペクトしろ」
「はあ? このイカれ野郎が。今の世の中は実力主義なんだよ。年食ってたら無条件に偉いって頭ん中、平成かよ」
シンヤは固まった。
たしかにこの若者の言うことにも一理はある。
だが、こいつが取っている行動には本能的にムカつく。
「分かった。じゃあ、おれも実力行使に出る」
「なんだと。……いててっ! ほ、骨が」
シンヤが掴んだ手にほんのわずかな力を入れただけで、若い男は悶絶している。
――あはは。すげえ力だな。どうだ、これがおれの実力だ。
電車が駅に着いてドアが開いた。
シンヤが手を放すと、若者は地べたを泳ぐような動きで降りて行った。続いてシンヤも電車から降りる。
「ひいいっ。許してください」
若者はホームに転がって頭を抱えてうずくまっている。
「ザ・グッバイ」
「ザってなに……」
シンヤはそのまま昇り階段に向かった。地面を軽く蹴るとシンヤの体は跳びあがり、一気に階段を昇りきって着地した。高さは五メートルはあるはずだ。
少し歩いて周囲から死角の柱の陰に入る。
瞬間――。ボディスーツが全身から剥離して塵状になって空気に拡散して消えて行った。
シンヤが柱の陰から現れた時には、いつものビジネススーツ姿に戻っている。
そしてボディスーツへの変身から元の姿に戻ると、シンヤの体から仕事や残業の疲れがすっかり消えてしまうことにも気づいていた。それこそ、そのまま徹夜で残業しても平気なくらいに。
――このスーツ面白え! もっと遊んでみっか。
数日後の深夜――。
東急電鉄の地元駅から家への帰り道。人通りはまばらだ。
夜の海浜幕張駅周辺とはちがってここには人が生活を営む気配がある。それを肌で感じとることができるだけでも終電になっても帰宅するありがたみがある。
ふと、どこからともなく鼻につく臭いが漂って来る。
シンヤは辺りを見渡した。
――あれか。
前方三メートルほど前で蛍が飛んでいるようにオレンジの光が揺れてる。
革ジャンを着た男が右手に持った煙草だ。
男が歩きながら煙草を口に持っていって紫煙を吐く。
その煙が拡散した中をシンヤが通り抜ける。鼻につく臭いだ。
これまでのシンヤであれば不快な気持ちを
だが今なら――。
「『Re・gain』」
シンヤは変身して革ジャンの男の背後に立った。
「おい」
煙草を咥えた男は振り向いた姿勢で固まっている。
シンヤはこちらに向いている煙草の先を指でつまんで火を消した。
もちろん熱くもなんともない。
そしてシンヤは地面を指さす。
革ジャンの男もシンヤの指先に目を向けた。
アスファルトに「路上喫煙禁止」のステッカーが貼られている。
「町のルールは守れ」
革ジャンの男は呆けた顔のまま黙ってうなづいた。
「歯磨けよ!」
「あ、ドリフターズの動画で観たやつ……」
シンヤがアスファルトを蹴る。今まで試していなかったが、思い切り飛び上がってみた。
「あわわっ!」
五階建てマンションの屋上が足元の数メートル下に見えていた。
驚きのあまりに空中で姿勢を崩していたが、体が勝手に動いて直立の姿勢にバランスを取ってくれた。これもボディスーツの性能だろう。
眼下に住宅街の町明かりが広がる。
周囲を見渡すと遠くに超高層ビル群の赤い航空障害灯の点滅が見える。
「これがおれの力。この力があれば――」
マンションの屋上に着地した。
スーツに包まれた体をしばらく見つめる。
どこかで女性の短い悲鳴が上がる。
その方角に顔を向けた今のシンヤは聴覚も鋭敏だ。すぐに場所を特定した。
「はいはい、今行きますよー。町の治安はこの『夜神シンヤ
隣の建物の屋根まで飛ぶ。次々と屋根や屋上を伝って悲鳴の上がった場所へと急ぐ。
「今のおれは確実に女子にモテる!」
シンヤは希望に満ちていた。というより調子に乗りまくっていた。
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