おれに何が起こったか
「アー・ユー・レディ」
ロドリゲスさんの鼻息が荒い。やる気満々だ。
「ノ、ノー・サンキュー」
悲鳴に近いシンヤの訴えを無視して、ロドリゲスさんが動いた。
大きな目を剥いて、口をすぼめる。
「シュッ!」
鋭い呼気と同時に左腕が持ち上がって、最短距離の軌道でシンヤの顔面に大きく固そうな拳が伸びてくる。
――てか、遅っ。
ロドリゲスさんの一挙手一投足が手に取るように分かる。なぜなら、シンヤにはロドリゲスさんの動きがスローモーションで見えているからだ。
ようやくロドリゲスさんの左ジャブがシンヤの顔面に命中した。
赤子に頰を叩かれたくらいの感触。
途端にロドリゲスさんは苦しげに呻いて座り込んだ。右手で左手首を押さえている。
左手首があらぬ方向に曲がっていた。
「だ、大丈夫ですか」
シンヤはロドリゲスさんの様子を見ようと膝をついた。
ちらっと窓に映る自分が目に入る。
「すいません。アイ・アム・ソーリー」
黒いボディスーツがシンヤの全身を覆っている。部分的に黄色いカラーが入っていた。
「ぼくのせいで……ロドリゲスさ……、え……」
シンヤは立ち上がってもう一度窓に映る自分を眺める。
「なんだ……これは……」
黒いボディスーツに稲妻のような黄色のカラーリングが強靭な肉体を際立たせている。顔も頭もスーツとつながったマスクで包まれている。
テレビや映画で観たヒーローのようだ。
シンヤは手で顔を触る。
窓に映るボディスーツも同じ動きをした。
実体の自分の手を見て、足を見て、全身を見る。
シンヤの体をボディスーツが包んでいる。
「これが、おれ――」
『ZSP』のゲージ。
『Re・gain』の刻印。
おじさんにもらったスマートウォッチがシンヤの頭に閃いた。
「あれで変身したのか」
思考を巡らせている片隅で、左足になにか違和感を感じる。
「っめ、っら。っざけてんのか」
パンチパーマがサンダルの足でシンヤを蹴っていた。空手の有段者なのか腰が入った蹴りだ。しかし、痛くも痒くもない。
「あ……」
シンヤが振り向いた時に、左手が軽くパンチパーマの体に触れた。
「ぐわっ!」
パンチパーマは大げさに飛んで、電車の窓ガラスに蛙のように腹ばいで張り付いた。
滑るようにゆっくり落ちて動かなくなった。
「いや、おれ、そんなつもりじゃ」
シンヤは倒れたパンチパーマに向かって謝った。
「よ、寄るな。てめえ、何もんだ!」
モヒカンが絶叫している。震える両手に握ったナイフをシンヤに向けている。
「待ってください。刃物は危ないですよ」
「うわー!」
モヒカンが叫びながら突進してくる。
「ええー!」
思わずシンヤは逃げようと振り向いた。
すると、右の脇腹に割り箸で軽く突かれた感覚。
見ると、脇腹にナイフが突き立っていた。
「ぎゃー!」
反射的に叫んでしまったが、ナイフはボディスーツで防がれて刺さっていない。
「うおお!」
モヒカンが狂ったように何度もナイフを突き刺すが、なんともない。
シンヤはモヒカンの額を軽く押した。
ものすごい勢いでモヒカンは後方に転がって行き、五メートル以上先の運転席を隔てる壁にぶつかって止まる。
シンヤは車両に転がる三人組をしばらく呆然と眺めていた。
救われたサラリーマンは何も知らずにまだ幸せそうな顔で眠っていた。
品川駅に到着した。
田町駅からわずか二分ほどの出来事であった。
シンヤは山手線を降りる。
するとボディスーツが体から剥離していく。灰のように粉々になって空気の中に拡散して消えていった。
いつものスーツ姿のシンヤに戻った。
シンヤは自分の体を眺める。
左腕にはおじさんからもらったスマートウォッチが巻かれている。
なんだか身も心も久しぶりにスッキリした気分だ。
「マジかよ」
シンヤは人気のない駅のホームを見渡す。夜風が気持ちいい。
「ダーッ!」
拳を夜空に突き上げて喜びを爆発させた。
電車とホームのドアが閉まる音がして、最終電車がゆっくりと品川駅を出て行った。
「あら……」
今夜はもう電車では家に帰ることはできないシンヤであった。
その夜中の一時。海浜幕張駅。
一人の駅務員が、駅を閉める前のホームの点検を行っていた。
「今夜は宿直か。最近疲れが溜まってるんだよな」
あくびを嚙み殺す。
ベンチの下に転がっている空き缶を見つけて、拾おうとしゃがみ込んだ。
「おーい。そっちは大丈夫か」
「もう終わるよ」
階段から呼ぶ同僚の声に応える。
「キキキ」
奇妙な声のした方を向く。
「なんだ」
自動販売機の明かりに照らされた物体。生き物に見える。
「狸……か」
子犬くらいの大きさ。犬にしては球体に近い形状だ。
むき出しの内臓を思わせる朱色の肌がわずかに光沢を放っている。
よく見ると細長い手足が生えている。
「キキーッ!」
それはすばしこく駅務員に近づいて顔に飛びついた。
駅務員がむしり取ろうとしても離れない。
爪だ。思い切りひっかいてくる。
駅務員は顔に生ぬるい液体を塗られたかと思った。それは自分の血であった。
顔を切り刻まれ続けている駅務員の口から迸った絶叫は闇の中に消えて行った。
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