第4話 追憶 (下)

 あなたの友達がお見舞いに来たがっているけど、どうする?と、母から言われたのは、目覚めて1か月が過ぎようとしている頃だった。


「え?俺が、通っていたっていう高校の?」


 うん。と答えてから母は「嫌だったら、無理に会わなくていいのよ」と言ってくれたが、俺は少し考えてから会ってみるよ、と返事をした。記憶を取り戻す、きっかけになるのでは?と思ったからだ。


 母は俺の顔を少しの間見つめてから、「分かった。明後日の日曜日のお昼頃、来てもらうね。その日なら私も一緒にいられるから」と言った。



 友達との再会?ってやつは、結論から言うと最悪の時間だった。


 誰一人として知っている人はいなかったし、何か心に思い浮かぶ事柄も無かったからだ。相手からしても例え事前に俺の状況を知っていたとしても、やはり現実を目の当たりにするとことでショックを受けたことだろう。

 俺だって、何か記憶を取り戻す手掛かりになればと期待していただけに、少なからずショックを受けた。


 結局、お互い傷ついただけの再会になってしまったんだ。


 その日、俺は初めて涙を流した。そんな俺の背中を、母は何も言わず優しくなでてくれた。





 俺が病院を退院したのは、2月の中旬頃だった。母の運転する車で、これから暮らす見覚えのない我が家に到着すると、玄関でユメが待っていた。


「ほらね、病院からあっという間だったでしょ?」


 と、ユメが笑顔で出迎えてくれる。


 確かにユメの言う通り、拍子抜けする程に近い距離に我が家は建っていた。というか、振り向けば病院がすぐそこに見える。病院からほど近い閑静な住宅街の中だ。


 だから言ったでしょ?と勝ち誇った笑みを浮かべながら、ユメが肩を貸してくれる。

 俺はゆっくりと、初めて入る我が家への玄関へと歩みを進めた。そんな俺たちを荷物を持った母は微笑ましく見つめながら「ユメ、お兄ちゃんに家の中を案内してあげて」と言った。


「はーい」


 返事をしてからユメは、「お兄ちゃんに家の中を案内するって、なんか変な感じ」と言って笑った。



 1階を一通り案内してもらい、今度は2階の俺の部屋に行くことになった。う~ん、自分の部屋だと言うのに全く見覚えがない。我ながら、情けない限りだ。


「……俺は、テニスが好きだったの?」


 部屋には、テニスのラケットが綺麗に手入れをされて立て掛けてあった。そして有名なテニススプレイヤーのポスターや雑誌が見てとれる。


「……うん」


 と、ユメが小さく頷いた。明らかに元気のない返事だ。


「お兄ちゃん中学の時は県大会で、いいところまでいったんだよ。私もお母さんと一緒に応援に行ったんだ」


 そう答えてくれたユメの肩は小さく震えている。元気に振舞ってはいるけど、妹の心の中は不安で一杯なのだと俺は改めて思い知った。


 そしてそれは、きっと母も同じなんだ……


 本当に仲のよい兄妹で、仲のよい家族だったんだな、俺たち。



 だから俺は、出来るだけ優しく妹の背中をさすりながら「大丈夫。俺、頑張るから。いつも本当、ありがとう」と、素直な気持ちを口にした。


「……本当にお兄ちゃんじゃ、ないみたい。前は、そんなに優しくなかったよ?」


 すると妹が、目に涙を浮かべながら照れ臭そうに俺の胸をポクポクと叩いてきた。それが俺たちの顔に、笑顔が戻った瞬間の話だ。


「この奥は私の部屋と、お母さんの寝室だよ」


 廊下に戻るとユメはそう説明し、1階に戻ろうと俺の手を引いた。


「え?二人の部屋も、案内してくれないの?」


 すると、ダーメ!と軽く舌を出したユメからの返事が返ってきた。どうやら部屋の中を見られるのが、恥ずかしいらしい。ユメは抵抗する俺を無理矢理に引きずりながら、「ほら!危ないから言う通りにしてよ!お兄ちゃんのバカ!」と怒る。


 引きずられながら1階に着くと、待っていた母の顔が怖い。


「あんたたち階段で、なにイチャイチャやってるの?危ないじゃない」


 スミマセン……と、二人で謝る。


「もう!お兄ちゃんのせいで私も怒られちゃったじゃない!」とユメにも怒られてしまった。……スミマセン。



 結局、俺は暫くの間、1階の客室を使うことになった。六畳ほどの畳の部屋だ。怪我人には2階は不便だろうとの判断からだ。最初からそう決めていたのだろう、病院から持ってきた荷物もすでにその部屋に置いてあった。


「必要なものがあったら、遠慮なく私に言ってね。二階から持ってきてあげるから」


 そう言い残しユメは自分の部屋に戻っていった。一人残された俺は、畳の上に座りながら新しい生活に思いを馳せたのだった。





 新しい生活は、リハビリと勉強漬けの日々だった。休んでいる高校に春から戻ると、決めたからだ。幸い学校側の計らいもあり、テストを受けて一定の点数をとれれば出席日数が足らなくても、そのまま進級出来ることとなった。


 母からは、通信制高校などへの転校か1年間休養をとって来春に他の高校に入学し直すことも勧められたが、俺は今まで通っていた城西高校へ戻ることに決めた。

人間関係など色々と不安はあるが、1日も早く元の生活に戻って家族を安心させたい気持ちが勝ったのだ。


 それにもし記憶が戻った時、前と同じ環境にいた方が絶対にいい。


 最初は恐る恐る広げた教科書だったが、意外と覚えていた。どこでどう教わったか等は全く覚えていないのだが、案外内容を理解する事はできた。特に数学と国語は得意だったし、英語や社会などは苦戦はしたが、やってみると案外楽しい。


 通院もリハビリを兼ねて、一人で行くようにした。最初は頑なに同行を主張した家族達だったが、同じく頑として聞かない俺に、何も言わなくなった。


 それに日課となりつつある散歩も、いいリハビリになる。


 天気のいい日は、近くを流れる河川の河川敷を歩く。テニスコートや草野球、サッカーのグラウンド、乗馬の練習場などがある緑地帯だ。まだ2月なので緑は無く、雪も少し残っていて寂しい風景ではあったが、不思議と俺はこの場所に気持ちが和んだ。記憶にあったからだ。


 俺はこの場所を知っている。そんな気がした。





「ねえお兄ちゃんて、こんなに料理、上手だったけ?」


 俺の作った煮物を、口に運びながらユメが言った。最近はもっぱら、夕飯の支度は俺がしている。タダ飯を食わせてもらってばかりはいられないからな。


「はい?前から、こんなもんだろ?」


 うーん、と目を細めながら、ユメはもう一口煮物を口に入れる。そして「うまっ!この里芋うまっ!」と顔をほころばせる。


 今晩のおかずは、とり胸肉のカツと、春巻きサラダ、里芋とイカの煮物だ。


「いやー明らかに上達してるって!前はなんていうか、決まった料理しか作らなくて、ザ・男飯!って感じだったけど、レパートリーも増えたし、味だってお母さんの味ってレベルだよ!」


 少し興奮しながらユメが詰め寄ってくる。俺は少しその勢いに押されて、上体を逸らしながら「まあ、落ち着けって。ユメだって料理上手だろ」と応えた。


「そ、そうかな?」


 少し嬉しそうに答えるユメ。


「ああ、この前のチーズと梅の春巻きなんて、最高だった」


 えー!あんなの簡単だよ!などと言いながらも、嬉しさ全開でユメが笑う。相変わらず感情が分かりやすくて、可愛い奴だ。


 だが実際、仕事で帰りが遅くなる事が多い母に代わってユメが料理をすることは多かったし、腕前も中々のものだった。今夜も二人だけで夕飯を囲っている。話を逸らされた事に気付いたユメが、慌てて話を戻そうとする。


「もう!私のことじゃなくて、お兄ちゃんはどこで料理を覚えたの?」


 どこでって言われてもな…… 覚えてないし。返事に困った俺は、「マヨネーズに教えてもらった」と、適当にお茶を濁した。



 そんな日々が続き松葉杖がなくれも歩ける様になった頃、進級できるかどうかのテストが待っていた。結果から言えば、定期的な補習を受ける事が条件だが、無事に進級出来る運びとなった。

 テストを担当した先生曰く、二学期の期末テストの時よりも大分学力がついていて、驚いたそうだ。


 進級に合わせてクラス替えが行われるそうで、それは正直に言えば俺にとっては有難い話だった。覚悟はしていた事とはいえ、クラスメイトは全員が俺を知っていて俺だけが皆を知らないと言うのは、どうしてよいか分からなかったからだ。それは向こうにしてみても、同じことだろう。お互いバツが悪い。

 クラス替えが行われれば、もちろん俺のことを知っている奴もいるだろうがクラス全員という訳ではないし、クラス替えの直後は俺一人に構っている場合ではなくなるだろう。


 こうして俺は、4月の始業式より二年生として城西高校へ通い始めた。





 ここから先の話は、始業式も近づきだいぶ暖かくなってきた頃に母から聞いた話だ。



 あの事故の時、俺の命を救おうと尽力してくれた人がいた。その人は今も、俺が入院していた病院で意識が戻らないまま、集中治療室で眠り続けている。


 俺の担当医の先生によると、あの日は大雪で救急車の到着が大幅に遅れたそうだ。もしその人の応急処置がなければ、俺の命は確実になかったそうだ。


 まさに俺にとっては、その人は命の恩人だな。


 その人が今でも意識不明の重体である事実は俺たち家族にとっても、無関係である訳はない。ただ、ユメにはこの件は話していないそうだ。ただでさえ、俺の記憶喪失の事でショックを受けている彼女に話をしなかった母の気持ちは理解出来る。

 ただ俺や母が未だ意識が戻っていないご本人はもちろん、その家族に感謝の気持ちを伝えたいと思うのは当然の気持ちだった。実際、母は何度か面会を申し込んだそうだが、先方のご家族には全部断られたそうだ。


 もちろんすでに逮捕されているひき逃げ犯にこそ責任がある訳だが、人の感情はそんなに単純じゃない。自分の大切な人であればある程、その人を傷つけた原因でもある俺やその家族に嫌悪感を抱いたとしても仕方がないのかもしれない。ましてや俺が、先に回復したともなれば尚更だろう。


 それに今の先方のご家族の気持ちを思えば、俺たちの感謝の気持ちなど迷惑以外の何物でもないだ。


「私も逆の立場だったら、同じ事をすると思う。本当に配慮が足りなかったわ。でも、でもね。私は感謝の気持ちを一生忘れない。そして、いつかその方が元気になってご家族と笑い合える日が来たら、絶対にこの気持ちを伝えたいわ。私の大切な息子を助けてくれて、ありがとうって……」


 母はそう言って泣いた。


「ユウ、勘違いしないでね。あなたが悪いわけじゃ、決してない。ただ、今あなたが、こうしている事も、私達家族が笑っていられる事も、感謝なしではいられないって事を、分かってくれれば嬉しいの」


 いつし俺の目蓋からも止めどなく、涙が流れていた。


 声にならないまま俺は何度も頷き、この気持ちを一生忘れないと心に決めたんだ。

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